柄谷行人『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』 p.4-5

マルクスは、商品交換は共同体と共同体の間ではじまり、その結果、共同体の中でも個人間でもなされるようになる、といっている。しかし、当然だが、共同体や家族の中にも広義の「交換」がある。それは、贈与とお返しという互酬制である。これはマルセル・モース以来の人類学者によって強調されるようになった概念だが、未開社会あるいは共同体に限られるものではない。身近な例をとれば、親と子供の関係は互酬的=相互的 reciprocal である。親が子供の面倒を見るとき、それは贈与である。子供がそれに対してお返しをするかどうかはわからない。ただ、親にとってはたんに子供がいてくれるだけで十分に報われたと思うかもしれないし、また、親に対して何もしなかった子供は負債感情をもつかもしれない。こうした事柄は通常、交換とは考えられていない。実際、商品交換から見ると、これは等価交換とはいえないが、当事者たちにとっては等価交換なのである。

親子関係を「公正な交換」の目線で見ること。
「一方的に扶養してもらっている」わけだが、しかし本人としては「生まれたくなかった」。→ 親からすれば、「もう死んでくれてもいいから、扶養することをやめる」という選択肢もあるはず。 子供側からすれば、「扶養をやめてくれていいから、楽に死なせてほしい」があり得る。 命を天秤にかけた交換行為がそこで問われる。 ▼「こんな残酷な世界に産み落とした責任として、死ぬまで養ってほしい」という要求を親に突きつけたとして*1、そこに《交渉》が始まる。 しかし現実問題として、親に扶養能力がない場合、あるいは死亡した場合には、ひきこもり当事者は単に路上に投げ出される。 これは価値観論ではない。 ▼臨床的事実として、長期間閉じこもった人はそれだけ社会復帰しにくくなる。 「なるだけ社会復帰しやすい社会にしよう」という運動はぜひ私も続けたいが、もちろん一部の人にとってそれは間に合わない。 閉じこもることは単に自殺行為になる。 ▼閉じこもることをロマン主義的に語る人は、こうした冷酷な事情を考えていない。



*1:現実には、当事者の多くは激しい罪悪感に苦しみ続けている。 「これだけしてもらったのに、こんなことにしかならなかった・・・」