問題意識の分断

葛藤が労働に支配されれば、もう問題意識はそこにしかなくなる。 《つながり》は労働に支配される。そこに疑問を持てば、集団から排除される*1。 ▼扶養されることすらできなくなった人は生活に必死で、「家にいられる人の葛藤」なんか考えない。――だから、その両者が乖離する。問題意識が、それぞれの領域で閉じてしまう*2。 その問題意識の構造それ自体が、問題を再生産する。


働く人にとっては、不登校や引きこもりが「治療対象」であることなど、どうでもいい。だから80年代の抵抗が親御さんから起こったことは必然であり、それ以外にはあり得なかった。 「親の扶養を受けられる人が治療対象にされることの問題」を考えるのは、その内部にいられる人でしかない。それゆえにこそ、労働問題へのアプローチも硬直する。なぜなら、場所の問題意識に支配される《つながりのあり方》が全く顧みられないから。彼らは、「生活と労働を考えるにはこれしかない」、自分たちの言説支配はこれしかないと思い込んでいる。関係をめぐる試行錯誤には、家の中と職場が同時に賭けられているのに。


私が10年間模索を続けたのは、ある意味では無駄だった。贈与的な試行錯誤は、私的には消費されても、制度は動かない。私のブログは、「カネも稼がないで人生論にうつつを抜かしてる」としか見られていない。 ところが、問題構造を再生産する専門家言説は、「仕事をしている」と見なされて対価が出る。(むしろ、問題構造を再生産するからこそ、その問題構造から対価が払われる。本当の意味で問題に取り組めば、既存の関係様式*3に口を挟まざるを得なくなるため、右と左を問わず拒否される。)


学者やマスコミの再生産の様式が、《お前は治療対象》という構図を固定する。この構図には、社会順応者の生活が懸かっているから、おいそれとは動かない。


言葉の生産者は、徹底して軽視される。場所の維持者になれば、承認はされる。しかし、「評価されるために場所をもつ」では本末転倒。 場所と関係を支配する言葉のあり方にこそ、本当にやらなければならない仕事がある。



*1:つまり左翼にも、「反権力であることにおける順応主義」がある。問題意識それ自体における順応主義が。

*2:《あいだをつなぐ問題意識》に、存在する権限がなくなってしまう。

*3:問題意識のあり方