対談:斎藤環×鈴木謙介 「インターネット・カーニヴァル」 雑誌『大航海』No.56

鈴木 身体性みたいなものも含めて、あるいは世界に空いてしまう穴のようなものも含めてすべて折り込み済み。穴は空くだろう。「で?」となる。(笑) 「で?」っていうところで開き直るとニーチェの超人になるわけですが、そこで開き直らない。なかなか厄介。
斎藤 厄介ですね。 (中略) でも本当にどうすればいいんだろう。ぼくにしては切実な話ですよ。だって「二十代」のひきこもりは、かなりの部分がそれですよ。(笑) そりゃあぼくらもとりあえず言いますよ。「デイケアで仲間と知り合おう」とか「バイトでも何でもいいから体験してみよう」とか。でも言っているこっちが信じていなければやっぱりそれは伝わるわけですよ。「あ、こいつ真面目に言ってないな」って。
鈴木 テンプレで言っているなって。(笑)
斎藤 そうそう。(笑) そういう無気力感が現場にも漂ってしまう。これはニートもそうで、ニートの現場はもっと遅れている印象がある。それこそ東大が「希望学講座」とかやるらしいけれども、ちょっと「うわあ」という感じで。
鈴木 ぼくは概論を見ただけでひっくり返りました。希望も願望も全部いっしょくたにしてますしね。(笑)
斎藤 何かやって見せるパフォーマンスかと思ってしまいましたけどね。信じている振りをするパフォーマンスみたいな。(笑) いや、関わっている方々の善意は露ほども疑ってないんですが。

斎藤 ひきこもりの現場で起こっているのは動機の押しつけによる失敗ですからね、ほとんどの場合。

斎藤 だけど、たぶん続かないだろうというのがある。働けばそれなりに充実するし、それなりに喜びもあるだろう。そういうの全部見越しちゃってる感じがする。働いたことで何か新たなものが付け加わるとか、新たな学習をするとか、そういう感じがまったくない。能力としては全然働けるんだけれども、継続的に働いて何かにコミットしていることに意義を感じる人なのだろうかと、疑問を感じざるを得ない。
鈴木 バイト人生というか、ちょっとバイトしてお金ためてひきこもってを二十代の間に繰り返して、「もう就職ねえぞ、どうすんべ」となったときにはとき遅しというパターン。これはひきこもりよりむしろフリーター、ニート問題に近い。

斎藤 これははっきり明文化しないと、当事者たちは思いつかないんですよ。余裕がないんで。(中略) 何とか働かないでも生き延びる方法を提案し続けるのは重要だと思っています。 だけど、社会的に人々が受け入れるのは玄田さん的な「そうは言っても働こうよ」という行き方で、そのほうが大人も、当事者も動員できる。それはやむを得ないことです。

鈴木 いや、色々分かった上で「あえて」そういう道を選ぶという話ですよね。「もちろんそんなことはわかっているが、そんな脱社会的存在は見捨てつつ、戸塚ヨットスクールでフォローできるところまでを救済の対象とするしかない」という。
斎藤 そこですよね。もちろん象徴としての戸塚ヨットでしょうが、若者自立塾もそういう部分があるのは否定できない
鈴木 思考の言葉と現実の間にできている距離のせいで、現実にすり寄ろうとするとそういう言葉しかない。
斎藤 韓国の事例を見てもね、徴兵制があれだけ徹底されていても、ひきこもり、ニートはどんどん増えているわけだから、もはや身体性では集団的なシニシズムは救えないのは分かりきっている



シニシズム」と「労働条件」の間で苦しんでるわけか、僕らは。