「迷惑」 → 「棲み分け」?

未就労や未就愛が周囲の個人にとって「迷惑だ」とすれば、これはやはり個人間の「契約」の問題として語れるだろうか*1
「就労も就愛もしていない人間には社会性がない」が迷惑だとすれば、それは「就労・就愛」そのものが問題なのではなく、「対人関係レベルでスキルをつけろ」というだけ。 → 就労や就愛は、それ自体として目的化しているというよりは、「訓練機会」として要請されているのではないか。 「仕事も恋愛もしていない奴は人格的にウザイことが多いから、訓練しろ」というような。


接触義務がなければお互いに無視すればいい。要するに「棲み分け」。それができないから困るのだが・・・・。【ひきこもり・ニートは、契約当事者として非力すぎる。】

  • 家族や第三者が、引きこもり・ニート当事者を「迷惑だ」という場合、どのレベルでの「迷惑」か。
    • (1)経済
    • (2)道徳
    • (3)暴力・犯罪
    • (4)世間体








*1:家族との関係に「契約」を導入してはどうか、という斎藤環氏 『ひきこもり文化論』 p.164 の提案を思い出す。