「生まれてきてしまった」

僕は、どんな言葉を手元に手繰り寄せなければならないか。
「何を勉強しなければならないか」を考えながら、よくわからなくなってくる。
気になった言葉を抜き書きながら、その中で自分の言葉を手探りしてみる。

存在の価値と経済的価値は等価ではない。ぼくたちが今後、徐々にくつがえしてゆきたいのは、まずそんな社会的な通念や圧力、当事者自身の魂をこそ根ぶかく強いる自傷的な思い込み(もう駄目だ、という生自体への諦念や侮蔑)だ。(杉田俊介フリーターにとって「自由」とは何か』p.15)

「自分はもう駄目だ」と思いながら、「生まれてこなければよかった」と強く思う。
「ここは自分の生きる場所ではない」という違和感。*1
中島義道が「いつかは死ぬんだ、それは不条理だ」みたいなことを言っていたが、それは真逆だ。「なんでこんな場所に生まれているのか、あまりに不条理だ」。世界はなんでこんなに残虐にできている必要があるのか。人間はなんでこんなに無残な肉なのか。人間を設計した奴は嗜虐趣味だ。なんでこんな場所にこんな肉体で生きているのか。

「そりゃ君失礼だぞ、おい。 この現実はな、私の現実でもあるんだよ! 君がないがしろにする権利なんか、ないんだよ、ばか者!*2



でも、そんなケイジジョウの問いに取り憑かれることは、じつは俗世的には弱い立場に回ることを意味する。いや脆弱で弱い立場だからそんなこと考えるのか。どっちでもいいがとにかく考えれば考えるほど弱いところに追いやられてゆく。余計なこと考えるのは戦略上よろしくない。地上の制度と他者に苦しむなら、そこに意識を集中すること。「こんな場所でこんな肉体で生きている自分」という自意識は、哲学的自虐ではなく、俗世的な戦略意識であること。俗世の何かへの怒りであること。造物主への怒りは、自分を傷つけ、現世での立場を悪くする。
ひきこもっているから、働いていないって? 一生働かないで居られるなら、それでいい。どこかで金が尽きることが明らかなのに閉じこもることしかできないで5年10年と年をとる悲惨さにまみれているなら、自分の状況をメタに考えて「どうにもならない」とため息をつかずにいられるか? 君はどこかで、死ぬか、過酷な労働に巻き込まれるかしかない。


俗世の資力と労働条件で追い詰められた。→ そこからある程度自由になれたとき、どんな自意識が待っているか。労働条件に苦しんだ間は、「働く生活者」という自分のほかに、「このような労働状況で働く自分」という苦しい自意識に意味があった。「自分はどのような労働条件で働いているのか」という状況そのものへのメタな問題意識に、何かを賭けることができた。しかし、自分の服すべき労働条件が我慢可能であったり、あるいはそういう状況を変えることに絶望すれば(絶望そのものを忘れてしまえば)、僕はただ状況に従い、一生活者としてベタに生きるのみになる。状況への問題意識は霧消し、「このような状況で生きる自分」という自意識は、状況への怒りではなく、自分への不甲斐なさと、絶望していることにすら気付かない諦念となる。
――いや、生きていられればいいじゃないか。それ以上なにを望む。


「この世の希望」って、何かあるのか? こんな場所に生まれているのに?
形而上的に問うべき諦念と、形而下的に問うべき怒りと。その辺でたぶん分節が必要だ。
ひとまずいくつか引用してみる。





*1:「だったらさっさと死ね、このフリーライダー」という陰の声。

*2:映画『アカルイミライ』より