≪戦う≫ → 「社会的」と「臨床的」

一人一人の個人的な取り組みは、「独り言でも何でもいいから続いたほうがいいよ」というのはまったくその通りだと思います。その個人的な作業の中に、≪変化≫への種子が胚胎されるのではないか、という点も御意。
ただ、「なんでもかんでも役に立つかどうかで判断するのは僕は嫌いで」というのは、判断の難しいところ。
一言でいえば、戦う必要がある時に、「役に立っても立たなくてもいい」とは言えない、ということだと思います。「共感の共同体に留まるだけでなく、課題共有に向かいましょう」という私の呟きは、「誰も≪闘い≫という要因を見ていない」という焦りでもあります。「このままじゃまずい」と。


喩えとして適切かどうか迷いますが、たとえば被差別部落問題。1922年(大正11年)の水平社宣言以来80年以上が経ちましたが、初期の解放運動について、「やってもやらなくてもいい」、「うまくいかなくてもいい」などと言えるでしょうか。全員が活動に参加するのはもちろん無理でも、誰かが戦果を作っていかないことには、黙って見殺しにされるだけ。
「部落差別と引きこもり差別は話が違う」というのはわかります。しかし例えば私は、次のようにも言われた。:「部落差別は≪いわれなき差別≫だが、ひきこもり差別は≪いわれある差別≫だ」。戸籍によって差別されることには合理的な理由はないが、働かない(そういう過去があった)人が差別されるのは、合理的差別だ、というわけです。▼こういうあからさまなことを言う人は珍しくとも、引きこもりやニート、つまり様々な理由から継続的な就労や経済活動ができない人は、黙って放置されればどうしようもなくなるでしょう。私は個人的にはそれほど貧困層だとは思っていませんが*1、それでも切迫を感じている。まだ若くて再復帰がいくらでもできるとか、何もしないでも年金受給開始年齢まで無職で生き延びられるような人は延々と独り言や共感ゲームに打ち興じていればいいですが、そうではない人は、「何もしない」ということは、「ジリ貧の死」ということでしょう。本当に「それでいい」と言えるのか。


独り言や共感ゲームだけでいい、というのは、課題設定が個人レベルで閉じています。「自分がそこで元気になれればいい」というような。もしそのまま放置してもその人がずっと安泰なのであれば、それ以上の課題設定を導入する必要はありません。しかし、現実問題として「履歴書の空白」で排除され、いったん脱落したら復帰できない、云々といったトラブルが続いているとしたら、それら各点については、何か具体的に抵抗して是正努力をし、そこで戦果を得る必要がある。つまり、課題設定が「独り言でいい」というレベルをはみ出る必要がある。


雇用市場からの構造的排除が一方であるとして、引きこもり・ニートの心理面を問題にする必要があるとすれば、それは「対人恐怖」そのものというよりも、戦うべきところでちゃんと戦わず、やられるままになるその青臭い間抜けぶり、悪く言えばバカさ加減、それこそが核心的なのではないか。世間的にはその「お人好しの間抜けぶり」が、「怠け者」と見られるのではないか。「戦えない者は死ね」と。 → さらに個別臨床的に言えば、対人恐怖などの症状は、「戦うことができない」というメンタリティの帰結とも言えるのではないか。だとすれば、≪戦えるようになろう≫というのは、社会課題のみならず、個人レベルの臨床課題としても設定できることになる。


「やられるまま死んでもいい」というのが嘘であるなら、社会的な取り組みを真剣に模索する者を「なに大風呂敷にマジになってんの?w」とバカにする当事者が多いのは、どういうことか。そのように嘲笑する本人は、自分の身近の対人関係においては排除されイジメられる側に回っていたりするわけです、「戦えない」がゆえに。(自分の無力を私に投影しているということか。) ▼そしてそういう排除やイジメに対しては、「独り言」や「共感ゲーム」は、一時的、あるいは準備的な意味しか持たない。あるいは何度も触れているように、むしろ「共感ゲーム」そのものが、非常に感情的な排除のゲームを生み得る(「偽ヒキ問題」などの深刻度競争)。


というわけで、≪戦わなければならない≫というのは、「脱落しても復帰できる環境作りをしましょう」という大きく社会的な課題共有のレベルにおいてもそうだし、「自分の仕事や生活の環境において、自分のトラブルに自分で取り組めるようになりましょう」という個人的なレベルでもそうだと思う。つまり、「環境を変える」という目標においても、「自分を変える」という目標においても、≪戦う≫という要因を支えられなければ、どうしようもないではないか、と思うのです。ここで、「生活とは、戦って勝ち取るものだ」という説教系の比喩を思い出してもいい。継続的な生活運営には、≪戦い≫という要因が不可避のように思います。
これは、私が何度も触れている≪トラブル耐性≫にも関わります。ひきこもりやニートの当事者・経験者は、極端にトラブルに弱い。ということは、ストレスに弱い。それが具体的には、「対人恐怖」「外出恐怖」といった名前で呼ばれているのではないか。あるいは、一つ一つの強迫的な症状となって現れているのではないか。だから「戦わなければ!」というのは、何も大風呂敷の政治的アジテーションというばかりではなく、個人レベルでの臨床課題でもあると思うのです。大枠の課題設定には共感できなくてもいい(それは誘惑できなかった側の問題でもある)。しかし、どのような人であれ何らかの形では職場や生活圏で対人接触を持つのですし、引きこもっていても家族とは一緒にいる、あるいは一人暮らしでも親に仕送りされている。だとすればどこかで「その状態を支えるのか、支えないのか」で周囲と格闘せねばならないはず。そもそも、どのように閉じこもっても、社会の中で暮らさねばならないのだから、常に繰り返し社会的な審問に付される。「ほっといてくれ」という主張も、≪戦い≫の一つでしょう。


今、元気に生きている人は、どうも「トラブルを楽しめる人たち」ではないでしょうか。憔悴し、働けなくなっているのは、「トラブルにいちいち参っている人たち」ではないでしょうか。私はこれまで明らかに後者のタイプで、しかし単に「好戦的」というのはなれそうもなかったし(そもそも空しい)、他の人に呼びかけるにも現実味がなかったので、間をつなぐ方法、というか取り組みの方法論をずっと模索していたのですが、「属性ではなく課題への帰属」、それも「多層的複数帰属」ということで、ひとまず整理がついたわけです。





*1:統計的位置づけは良くわからない