≪分析≫(「メタ−ベタ」の緊張感溢れる往復)同士の出会い

「公的−私的」のほかに、「メタ・レベル−オブジェクト・レベル」(メタ−ベタ)という点で考えてみます。
リアル・ワールドにおいて排除されている人間は、単にメタレベルで沈思黙考していても埒があかない。オブジェクト・レベルで具体的にプレイヤーの一人になって、ベタに戦果を出さねばならない。しかしいきなりベタにプレイヤーになるだけでは、そのフィールドのゲーム・ルールそのものが持っている問題を意識化し課題設定することができません。だからベタに1プレイヤーをやって戦果を上げつつ、常にメタとの往復を試み、課題そのものを仕切り直す必要がある。(この往復をしないで済むベタな「試合没頭タイプ」が、具体的戦況にめっぽう強かったりするわけで、難しいですが・・・。)


メタそのものに葛藤や戦いがあるし、ベタにはもちろん勝ち負けの具体がある。そして、「メタ−ベタ」の間にも、戦いがあると思うのです*1。ひきこもり支援関係者の多くは、直接的な農作業や「手に職をつける」訓練*2のみを「意味のあること」と見なし、メタレベルの話を「頭デッカチの空理空論」としか見ません。逆に言えば、自分たちがメタに抱えた支援方法論を絶対だと思っている。あるいは無批判に、(斎藤環氏などの)権威者に依拠すればいいと思っている。で、考えかたの違う他の支援者と、ベタレベルでは泥仕合ばかりになる。
各人がベタに身を置きながら、自分の居場所でメタとベタを往復すること。「ひきこもり支援」という課題設定にこだわるのではなく、その≪分析≫*3の作動において、出会える人を探すこと。その≪メタ−ベタ≫の緊張感において、戦いを続けること。
私は何度も潰れそうになりましたし、今後も潰れるかもしれませんが、ひきこもり論で出会う人が、「ベタレベルのどうしようもない事情を無視していきなりメタに引きこもりを論じ」たり、あるいは逆に、「現場のカネ絡みの葛藤を重視するあまりメタな分析のすべてを拒否する」、その両極端ばかりなのです。現場の葛藤とメタな分析の両方に足をかけ、≪メタ−ベタ≫の緊張関係でものを考えている人は本当にいないし、そういう作業を試みる者は信じられないほど孤独になります。端的に、「お前は邪魔だ」という話になる。いない方が「話がスムーズに」進むからです。


ひきこもり当事者の為す社会的議論はよくバカにされますが、これは「(オブジェクトレベルで)レースに参加していないのに、なに言ってんの?」ということでしょう。リングに上がらずに試合中のボクサーに文句つけてるだけ、みたいな。しかし逆に言えば、「現場に巻き込まれてしまったら冷静に考えることなどできなくなる」のも確かで・・・・。目の前の業務に忙殺されているうちにどんどん身動き取れなくなってゆく。 → 「現場に残りつつ、しかし現場の要請に忙殺されてもいない」でいるためには、どういう議論をすればいいのか。
同じことが、「ひきこもり支援」の実務にも言えるのだと思いますし、できれば私としては、そういう緊張感に引き裂かれながら為されている引きこもり論を、ピックアップしたいわけです。





*1:これは三脇康生氏のご指摘です

*2:当然ですが、そうした直接的な訓練は≪絶対に≫必要です。私も今後、チャレンジし続けるでしょう。

*3:「メタ−ベタ」の往復