「能動のつもりが受動」

「自発性」は、社会を構成する必須因子として恣意的に利用されている、という妄想?

「何かを考えてきたつもりで実は考えさせられてきただけではないのか」*1
鎌田の批評においては、この種の「能動のつもりが受動」への恐れが強迫観念的につきまとっている。
斎藤環氏 『文学の徴候』 p.207、鎌田哲哉氏について】






*1:知里真志保の闘争」群像1999年4月号