事柄に即した取り組みというもの

 もうひとつの問題は、一応マジョリティの側に立つとされる者がPC*1を標榜するとき、マジョリティとしての自己に対する後ろめたさ、そこからくるマイノリティの過剰な美化といった、いかにもセンチメンタルな甘さが目立つということだ。 そのような自閉や感傷を吹き飛ばすためにも、やはり横断的なコミュニケーションが求められている。
 鎌田哲哉丸山真男論についで発表した知里真志保論(『群像』1999年4月号)は、その点でも瞠目に値する。 彼は、このアイヌの知識人が、もとより日本人に同化するのでもなく、かといってアイヌアイデンティティに安住するのでもなく、あくまでも両者に対する鋭い違和感を怒りとともに生き抜いたこと、それを正面から受け止めることで武田泰淳のいくつかの作品が書かれた(『ひかりごけ』がエッセイと戯曲に分裂するといった形で)ことを、大胆かつ緻密に論証していく。 丸山真男論のリファレンスでもあったジョイスがここではさらに生きてくるだろう。 アイルランド生まれのこの作家は、母語の復興に与せず、あくまでも英語を使ってアイルランド語のように書いた――ドゥルーズガタリの用語で言えば、メジャー言語の中でどもることによってマイナー文学を創造したのだ。 ジョイスの、そして知里の怒りは、どちらのアイデンティティにも安住することを拒み、メジャー言語とマイナー言語の残酷な落差に身を晒しつづけることを彼らに強いたのである。 注目に値するのは、それを論じる鎌田哲哉が、自らその怒りを生きていることだろう。 そこには、マイノリティへの感傷的な感情移入など、かけらもない。 ただ、ひたすら燃え上がる怒りがある。 それがこの論文に異様な明晰さをもたらし、横断的な力を与えているのだ。 『批評空間』で私に対しても罵倒として炸裂したその怒りを、私はあえて肯定し、怒れる批評家の登場を全面的に歓迎する。 *2



日本語という言語を使ってひきこもりについて考えることには、同じ事情がないか。
日本語で引きこもりについて語っているのに、簡単かつ流暢に説明できると思い込んでいる人は――たとえ当事者であっても――何か間違っているのではないか。


「うまく怒ることができない」というのは、なんと苦しいことなのか。







*1:politically correct(政治的に妥当)または political correctness(政治的妥当性)の略

*2:浅田彰【領域を横断する怒りの批評】 より