境界活動を支える難しさ

昨日のエントリ について、齋木克裕氏(参照)のツイートより:

これは、大事にもかかわらず、持ち出すのが怖い話題でもあります。
なぜかというと、「自分は正規の○○だ」というのは、多くの人のナルシシズムの基盤だから。話し始めたとたん、怒り出す人がとても多い。


永瀬恭一さんがご自身のことを「非正規芸術家」と呼んでいましたが(参照)、*1
批評にしても、じつは「正規の批評家」というのは、もう何も論じていないところがありませんか。美術にかぎらず、職業的に正規化された「批評家」は、制度に内部化されて、業界的に承認されそうなことを言ってるだけに見える。


開運!なんでも鑑定団というTV番組がありますが、あそこで専門家というのは、「値踏みができる」ということです。芸術のフォーマットそのものを問い直したりすることは、期待されていない。「業界に内部化された事情通」――これ以外は、存在や機能として無視される。


今回も痛感しているのですが、

  • 完成/未完成
  • 正規/非正規

について、 《あいだに立つ》 ということ、
その難しさがものすごく大きいとしても、それは単に
「なかったこと」にはできないと感じています。
わかりやすく内部と外部を語った時点で、もう大事な話はできない。*2


私が関わらざるを得ない対人支援でも、

 「正しい社会人」が誰なのか、どうすればなれるのか

それを簡単に語れる人は、支援論ができない。


あるいは例えば、誰かを社会学者と呼ぶと、

 「私は違う」 「あの人は大学にポストがあるから社会学者と呼んでいい」

など言われるのですが、
本当に問い直すべきは、考え方がいつの間にか社会学ディシプリンに嵌まり込んでいないか、それを自分の問題として考えられるかどうか――でしょう。名詞形で「社会学者」と区切れるかどうかというのは、自意識や書類の問題でしかない。
自分を社会学者ではないと思い、現に制度的にもそうではないとされる人でも、話してみたら「社会学的にしか考えていない」なら、社会学の問題は、ご自分のこととして引き受けてもらわなければ困ります。*3


精神医学もそうです。
これははっきり、「医師免許があるかどうか」で区切られるのですが、実は患者さんの多くは、もはや精神科医のようにしか考えません。それがどういう帰結をもたらすかを考えずに、「専門家言説」を丸呑みしてしまう。


現代社会が、

 「完成品」「専門家」のアリバイで区切られる

それをタテマエとして成り立っているのは勿論だし、これを単に否定したら、
生活の再生産じたいが破綻するのも、また自明と存じます。


では、「正規の」とか「完成品」とかの詐欺に陥らないで、それでも活動が続いていくには、どういうスタンスを取ればよいか。この《境界》を支える活動そのものを、どう支えればよいか。*4



*1:関連して、「非正規当事者」という話をしていました(参照)。

*2:いちど正規ルートを外れたら、二度と戻れないのが、問うことを難しくしていると感じます。「問うなら、入れてやらない」というような。

*3:たとえば、たんなる論理主義は、「正しいか間違っているか」「証明できたかどうか」があるだけで、《境界》というモチーフを立てられないのではありませんか。

*4:イードが『知識人とは何か (平凡社ライブラリー)』で呼びかけたのは、まさにこういう《あいだ》のスタンスだったと思いますが、それが社会的にどう支えられるのかは、よく分からないままです。サイード自身は、どうやって生活費を稼いでいたのか。