「物語」と「幻想」

すっかり遅レスですが、id:Ririka さんからもらった批判(?)、大事な話なんだけど、どう考えたら生産的になるかがよくわからなくて。 一応、いくつかメモ的に。

「ひきこもり」状態から抜け出したい男子の処方箋にはなんないよね。
性的承認(若いうちに女子から性的に全面肯定されること)が決定的に大事だという「物語」を強化して、この本を読んでる「ひきこもり」的な男子を、絶望させかねないものとして機能してる。

これは痛いところを衝かれたと思う。 たしかに、「そうか、性は大事なんだ」といくら念じたところで、「異性に相手にされない」という現実は変わらない…。 ただ、性的な要因を馬鹿にしないで考えるようにはなるかもしれない。(これはまた後述)

上山さんも、その≪感謝≫と≪恐怖≫の「物語」を共有している。 「トラウマ」になるほどに。 そう告白することで、上山さんもまた、宮台氏の説の信憑性を裏付け強化することに寄与してる。

リリカさんが「物語」(récit、story)という言葉で説明してくれたものは、僕の知っている(精神分析的な)言葉遣いでは「幻想」(fantasme、fantasy)の話にあたると思うんだけど…。 → 「物語」と「幻想」の違いは僕もよく分かっていないのです。


いちおう「幻想」の辞書的な説明を引用しておきます。

 フロイトにとっては、意識的な(夢想)、あるいは前意識的なさらには無意識的な、空想的シナリオや表象である。 一人または複数の人物が登場し多少とも変装した形で、ある人物の欲望を上演する。
 幻想は、無意識的な古い欲望の効果であると同時に現在の意識的または無意識的欲望の鋳型である。 (『精神分析事典』ISBN:4335651104 p.121。 強調は引用者。)

リリカさんが読んだという斎藤環心理学化する社会』ISBN:4569630545 にも「心的現実」という言葉が出ていたと思うけど(p.71-)、以下はフロイト自身の発言の孫引き。

 フリースへの手紙の中で、フロイトは、自身の発見によって、幻想というものは、どんな外界における現実にも匹敵するほど現実的で重要であることが分かったと言っている。 その後、彼は折りに触れて幻想はまさに心的現実であると語っている。 (『夢・幻想・芸術』ISBN:4772404392 p.32。 強調は引用者。)



「男の子が女の子に性的に受容されて救済される」なんて、モテない男を追い詰める≪物語≫にすぎない、だからそんなものに縛られて絶望する必要はない、というのは(僕はリリカさんの指摘をそんなふうに理解した)、たしかに一定の効果のある指摘だと思う(僕自身には苦痛緩和的に効果があった)。 しかし、ではひきこもりの男性たちがこれほど強烈な(まさにトラウマになるほどの)性的絶望に苦しんでいる事実は、単に「物語に縛られているから」だとでも?
→ 僕の言いたいことは、「物語から解放されたあとにも、欲望の鋳型としての幻想は残る」となるだろうか。


「物語批判」というのは、ポストモダン系ではよく見たテーマだけど…。 物語と幻想の関係はよく分からない。
僕は以前から「フィクション親和性が低い」という話をしているけど*1、虚構への親和性が低いからといって、自分の中に巣食う「虚構的なもの(幻想)」から自由になれるわけではない…。 「20歳で恋愛していなかったら、ひきこもっていたかも」というストーリー告白にこれほどショックを受けたということは、僕の中に「そういうシチュエーションを実は切望していた、なのに出会えなかった、だからここまでこじれたのか?」という、我慢できないようなマグマがあったということ。 凡庸な体験談が僕のマグマに触れるには、やはり虚構(ストーリー)の形をとる必要があったし、ということは、僕の中のマグマも、虚構の形をしているのではないか。 それは単に「物語だからバカげてる」と言うべきものなのか。


ちなみに上記の斎藤本では、ラカンの綱領を言い換えた斎藤さんの言葉が。(p.210)

 幻想に騙されて欲望が満たされたと錯覚してはいけない

「女の子に性的に受け入れられたからといって、欲望が満たされたと錯覚するな」になるだろうか、ここまでの話で言うと。


というわけで、「物語を排除しても、性的拒絶による苦しみは残る。たとえ受容されても、それは錯覚的満足かもしれない」という、なんとも奇妙な話に…。





*1:上の検索ボックスで「フィクション親和性」で検索してみてください。