「無能力の結果としての引きこもり」と、「自己決定の結果としての引きこもり」

5月31日、講演にお招きいただいた京都(京田辺市)で、初めて

 展開次第では、「引きこもりが死んでも自己責任」という論調が起きかねない

と言ってみた。(主催者の方々にはインパクトがあったようだ。*1
いっぽう、工藤定次氏は次のように語っている。

 ふと考えてみるに、いったい「大人」とはなんだろう。
 私は、「自己決定」と「自己責任能力」に尽きると思う。*2



工藤氏は「自己決定と自己責任に関する能力がないから引きこもってしまうのだ」と言っているわけで、「引きこもって死んでも自己責任だ」ではない。【「自己決定における無能力の結果としての引きこもりと、「自己決定能力の行使の結果としての引きこもりのちがい*3。】
だが、上で引用したドゥルシラ・コーネルの議論に即せば、取り組むべき課題すべてを個人レベルの「自己決定と自己責任」に還元してしまう姿勢は、「社会制度上の障害を取り除く」問題意識を吹き飛ばしてしまうのではないか。 → リバタリアニズム批判に通じる。


これも今後につながる重要な論点だと思うので、とりあえずメモとして。



*1:他には、「僕は命懸けで引きこもっている」というある当事者の言葉が印象的だったとのことです。

*2:工藤定次『脱!ひきこもり』ISBN:4939015645 p.81。この本は2004年4月21日に発売されているので、原稿はイラク人質事件よりずっと前に書かれている。

*3:後者は、万人のいかなる状況をも「自己決定の結果」と見なすのではないか。