『スペリオール』という漫画雑誌にて、夏目漱石『こころ』が漫画化されているそうで(さっそく読んでみるつもり)、そこでは「先生」が「ひきこもり」として描かれているとのこと。
漱石の登場人物は「神経衰弱」の「高等遊民」が頻繁に登場します。それが「現代語訳解釈」(!)によれば、「インテリ+トラウマ+貯蓄+厭世(+etc…)」になるらしい。それがchikiには「ひきこもり」の表象のされ方のひとつとして妙に気になったのでした。
僕は『こころ』は中学時代(20年以上前!)に一度読んだきりで、ストーリーもおぼろげなのですが、最後で自殺してしまう「先生」にはたしかちゃんと人間関係があって、異性との(三角)関係もあったのでは。 → 「6ヶ月以上、家族以外と接点がない」という条件を満たしていないので、状態像としてはとても「ひきこもり」とは呼べません*1。
この事例を参照していただければわかると思いますが、ひきこもり状態に追い込まれてゆく本人には、「厭世」と呼び得るような能動的選択さえないことが多い。 「世間がイヤだからひきこもった」などという言語化された状態認識が発生するのは、かなり時間がたってから、あるいは「抜け出したあと」であることが多いように思います。 受動的な「やむにやまれぬ」状態であって、能動的な「閉じこもろう」ではない。 → 「出られない」であって、「出ない」ではない*2。
閉じこもりの行動は言語的認識の前に生じている、というのは、重要な認識かもしれない。 「心身症のようにして引きこもっている」。 意識的に選択された行動は、≪症状≫*3とは呼ばれないはずです。
→ ここに、chiki さんの言う≪「自己責任」(選択意思)と「甘受」(選択放棄)の枠組み≫がある。 「お前がそのような症状を発症したのは、お前の責任だ」と言い得るか? あるいは「症状を甘受するのか?」という問い など。