明治期の「神経衰弱」 → 平成の「ひきこもり」?

 現代には阿部和重ニッポニアニッポン』という、「ヒキコモリ+不敬文学」という構造によって描かれている見事な小説があります。 この小説で描かれている「病んだニッポン=天皇制(解決としてのテロ)/ひきこもり(ニッポンの現代病)」という図式が、漱石を、そして『こころ』を読む上で重要となるキーワード「病んだ日本=天皇制(大逆事件)/神経衰弱(時代病としての)」と重なっているように思えるのです(時代背景が大きく異なるのは当然ですが)。



ごめんなさい、僕は『ニッポニアニッポン』という本は読んでいませんし、『こころ』が大逆事件と関係がある、という指摘も今は理解できません(さらに言えば、漱石もほとんど読んでいません)。 でも、「個人レベルの症状」としてでなく、「時代レベルの症状」として「神経衰弱 → ひきこもり」を考える、という視点は恐ろしく興味深い(ただしそれも、具体的処方箋との関係においてですが)。


僕自身はここに、「ではなぜ日本でそれが起こったか?」を加えたいです。 ≪日本≫論を、すべきなんでしょうか。