不自由で強迫的な「観念的硬直性」

id:Ririka さんからの問題提起の(2)、「本当の愛」について、昨日少しだけ触れました。で、それの続き、というか本編を書こうと思い(もう内容は決めてました)、参考までに世間でどんな言説が流通しているのか見ておこうと思って、「本物の愛」「本当の愛」「真実の愛」*1「genuine love」「true love」「real love」*2などでググってみたのですが、・・・・だんだん空恐ろしくなってきました。
なんですかこの宗教的・政治的なヤバさは。
世界の中心で、愛をさけぶ』というタイトルの本が300万部を越えたそうですが、「愛」っていうのがものすごくヤバイ単語に見えてきた。


引きこもりの当事者や経験者には、≪完璧なコミュニケーション≫や≪本当の愛≫を(強迫観念的に)志向してしまう人が多く*3、それゆえに過剰に自分を追い詰めてしまうのだ、というのは斎藤環さんをはじめ、いろんな方が指摘しています。
ちょっとした意思疎通の不備にどうしても耐えられなかったり、ネット上の交流を「ニセモノの関係」と断じる人も多い。つまりある意味非常に保守的、というより「観念的」であって、だから「本物の愛」云々も、引きこもりというテーマに内在的な話だと思います。


主に若い女性を性的に拘束するために機能する「純潔」*4という概念がありますが、引きこもっている人は、強迫観念的に「自意識の純潔」を守っているようなところがある。この観念的な硬直性は、たぶん防衛反応です。だから、「社会はそんなに甘い場所じゃないんだぞ」というような≪恐怖≫によって観念性を崩そうとするのは、逆効果だと思う。


自意識の硬直性にどうアプローチするか、というときには、≪訓練≫という要因が絶対に無視できませんが、問題はその「訓練プログラム」がはらんでいる思想です。
自衛隊に入れろ」など、暴力的な特訓を引きこもりに強制することによって洗脳してしまおう、という選択肢に魅力を感じている人は、社会にどれぐらいいるんでしょうか。


引きこもりの話にとって「本物の愛」と同じぐらいに重要な観念的テーマとして、「天職」というやつがあります。愛の場合と同じく、仕事に関しても「必然性」が望まれている。「運命的な愛」、「運命的な仕事」。


「真実の」「本物の」「純潔な」といった概念がいろんな意味でヤバイ、というのは、たとえばデリダ脱構築などが問題にしているんでしょうか。僕は以前に「ピュアリティの政治性」という言葉を使ったのですが、「苦痛緩和」のためにも、これはかなり決定的な問題という気がしてきました。(というか、みんな「苦痛緩和」のために、「本当の」何かにすがるんでしょうけど。)




・・・・というわけで、あまりに構想が広がってしまったので、この件についてはまた継続的に考えてみます。基本となるテーマはいくつかに絞られると思うし、すでにあたためているネタもあるのですが、また追い追い。



*1:ヒット数は、「本物の愛」<「本当の愛」<「真実の愛」

*2:ヒット数は、「genuine love」<「true love」<「real love」

*3:こう言うとまた「自己責任」と言われそうですが、「強迫観念的に」というところに注意。

*4:これも id:Ririka さんが話題にしていましたが、なぜ「処女」は崇拝され、「童貞」は蔑まれるのでしょう(これについては文化的な差異はあるんでしょうか)。いや、「処女」も崇拝されるのは若いうちで、高齢になれば「童貞」と同じ扱いを受けるのか。 → どうも、無意味に人を苦しめている気が。「性体験の有無」というのは、人間の評価にとってそれほど重要なことなんでしょうか? 肉体的な話のはずなのに、強烈に観念主義の香りがします。 → 性愛の文化というのは、実はきわめて観念的に硬直しているのではないか、という気がしてきました。