「シニシズムの中で、フェティッシュをさがす」

上の段落まで書き上げ、さて chiki さん(id:seijotcp)の昨日のエントリーについて書こう、とあらためてサイトにお邪魔したら、新しいエントリーで引きこもりを「物語なき状態で、フェティッシュの発露をなかなか見出せない主体」と正確に描き*1

 フェティッシュの発露をどこに求めるか、そのような発露はありうるのか、という問いはある意味で必然なことだとも思います。(中略)
 シニシズムの中で、フェティッシュをめぐる議論(なんか『世界の中心で、愛を叫ぶ』みたいですね:汗)について考えたり、関連する本を読んでみたいなぁ。

防衛的かつ強迫的な「自意識の純潔」は、それ自体フェティッシュと呼んでいいのかな。いや、むしろ「強迫観念ゆえに、フェティッシュを持てない」と言うべきなのか*2
「本物の恋愛」(フェティッシュとしての観念?)には、シニシズムへのリアクションという面もあるのか。


昨日も今日も「引きこもり」にとって大事なお話をされているのですが、「フェティッシュ」についてはまた考えることにして、昨日のエントリーについて少しだけ。



*1:「フェティッシュの発露」という表現は、よく考えると妙のような。「フェティッシュにおける発露」、あるいは「フェティシズムの発露」?

*2:この辺の言葉遣いを正確にしようと思ったら、やっぱりまたしても精神分析なんでしょうか。