大局観と局地戦

雑誌『諸君!』6月号斎藤環さんの発言については、僕も chiki さんと同種の危惧を感じました。(でもこの件については、ご本人に何も確認していません。)
彼の立場・戦略については、『ひきこもり文化論』ISBN:4314009543 の冒頭でご本人が詳しく論じているので、それが叩き台になると思います*1
僕自身も常に感じていることですが、「引きこもり」について公の場で発言するのは、本当に神経をすり減らす作業です(配慮しなければならない戦略上の要請があまりに複雑で)。だから「パフォーマンス・レベルでしくじってしまった」ということは斎藤さんにも起こり得ることだし、それは僕も他人事ではない。


そこでむしろ考えたいのは、「引きこもりを論じる上で本当に考えなければならないことは何か」ということです。散発的な戦略上のミスを論じるためには「大局観」が必要だと思うのですが、今はそれが(まだ?)見えていなくて、だから「引きこもりを論じる」と言っても、たいていは自意識論で終わる。 → それ自体が戦略的に間違っているかもしれないのですが、それを論じるための(いわば)批評的な枠組みがない。 【「引きこもりを論じる」と同時に、「引きこもりを論じることを論じる」作業が要る。】


というわけで、「文学を読む」スキル(およびそのための理論的枠組み)を「社会を読む」作業に応用しているように見える方々*2に注目しているわけです。


とにかく、「引きこもり」という現象は、当事者と批判者の言語をひどく貧しくする傾向をもつ。それにどうやって抗うか、というのが、僕の取りあえずの課題です。





*1:よければ僕の書いた書評もどうぞ。

*2:chiki さんもそうだと思うのですが、勘違いでしょうか。