「使える概念」のふりわけ

昨日の≪対象a≫についての議論は、「現時点での僕の理解メモ」ということで。僕としては(その議論が持つ)苦痛緩和上の意義にしか興味がなくて、だから「単独性」を考える上で参照してみたわけです(僕は「単独性」について考えることには苦痛緩和上の意義があると今は信じているのです)。おかしな点があったら(あるに決まってますが)また指摘してください。そのご指摘を通じてまた発展できるかもしれないし、≪対象a≫という概念そのものの射程にも興味があります。
なお、上記≪対象a≫論に誤りがあっても、その周囲の「単独性」論には影響ないし、今日のエントリーも独立していると思います。(≪対象a≫論はいわば寄り道でした。)


id:Ririka さんは「ふつうの日本語として理解できる範囲で参加してゆきたいのですが」とコメントをくれましたが、「何が異常なジャーゴンで、何がそうではないか」というふるい分けは、意外と恣意的なのかも。ラカンほど極端だとすぐにわかりますが、「概念への社会的待遇」には、ややこしい事情がありそうです(単に「正しい/間違っている」だけではなくて、「政治的」としか呼びようのない選別事情も含め)。
【★最近の「自己責任」みたいに、一つの概念の成り立ちそのものがいわく付きだったり、その概念の転用のされ方が、誕生時とは別の強烈な政治性をまとったりする。哲学ではおなじみの議論なんでしょうが、「概念が社会的にどんなふうに機能しているか」は、興味深い観察&考察対象なのかも(もちろん、苦痛緩和のために)。 → たとえば「現実逃避」というのは、引きこもりに関連してきわめてクリティカルな概念です。】


僕自身は、「ラカン概念だからすべて排除」は、「ラカン概念だからすべて崇拝」と裏表だと思っているし、「あんなに変な言説がなんであんなに支持されたのか」、いや僕自身にも≪対象a≫という変な概念に夢中になった時期があったのですが、それにはやはり事情があったと思ってる。今後も「苦痛緩和に役立てば」という条件つき*1で、考える時間を持てれば、と思います。



*1:その条件を満たすものなら何でも興味あります。その点に関しては、かなり無節操だと思います。