「理論家」と「当事者」のミゾ

知性と教養とフットワークのある人たちの影響を受けて、僕らの議論を鍛え上げる必要がある。「コミュニケーション」よりは「議論」が要るよ!

  • 理論をやっている人から見ると「上山は理論できない」となって、逆に当事者からすると「上山は難しいことばかり言ってる」となる。
    • とりあえず、苦痛の現場から言説を立ち上げるしかない。「理論を作る」ためではない。実際に苦痛やトラブルに取り組むためだ。
    • 「アイツは鋭いこと言ってるよ」と評価受けるような人間が当事者からもっと出ないことには。


  • 僕は以前、「『語られる』存在から『語る』存在へ」と語っていたはずだった。なのに先日は「自分にできるのはサンプル提示だけだ」と卑屈なことを語っていた。うーん。僕の野心はどこへ向かうべきか。(「当事者」というポジションに出来ること、「専門家」に任せるべきこと)
    • 「『野心』とか口にする前に、まず『食える』ようになれよ」というごもっともな批判が聞こえてくる。でも、僕の考えるに、「野心的に打って出る」姿勢が持てなければサステイナブルじゃないと思うんですが。いや、もちろん「取りあえず食えるようになる」が野心であってもいいんですが、僕自身は「食えるようになる」こと自身を自己目的的に野心にすることができないので・・・・(「生きること」自体は僕にとって基本的に苦痛でならない)。
    • 積極的な事業意識が持てれば、意識もクリアになるし、その事業を誰かと共有できる道も開けるかも知れない。
    • 個人的には、「具体行動を生み出す問い」の名手でありたい。問いの明確化はそれ自体が大きな貢献だと思う。