バフチン「行為の哲学」*1



●真理と当為

 ある判断を真理として是認することは、その判断を何らかの理論的な統一に関係づけることなのだが、この理論的な統一は、わたしの生の唯一の歴史的な統一とはまったく別のものである。

  唯一のわたしの生を統一できない感覚




●行為の問題

 理論的な意識が構築した世界に、現実の自己や自身の生を、その要因として入れることはできない。もしそうなった場合、われわれは決定づけられた存在、前もって決定された、過去の、でき上がった存在、本質において生命を失った存在となる。われわれは、責任とリスクを負った、開かれた生成の行為としての生から、無関心な、原理的に出来合いの、完成された理論的な存在へとみずからを追いやることになる。これは行為の随意性、新たなもの、創造されるもの(行為のゆく手に立ち現れるもの)を排除することによってはじめて可能なのだが、そうした世界では、生きること、責任をもって行為することができない。そこではわたしは不要であり、原理的にいってわたしは存在しない。理論的な世界は、わたしの唯一の存在という事実と、この事実のもつ道徳的な意味を原理的に捨象することによって得られるものなのである。

  認識や操作の対象ではなく、語りかける対象としての私と他者。
  でも現実にはそうはならない。私たちは自分や他者を操作や利用の対象としか見ていない。
  そして多くの対話は徒労でしかない。




●真理と認識

 真理の価値は自足的・絶対的で、永遠である。認識という責任ある行為は、真理のもつこの特性、この本質を考慮する。あれこれの理論的命題の価値は、それが誰かによって認識されるか否かということには依存しない。これにたいして認識という実際の行為は、認識の内部で理論的に捨象される所産なのではなく、責任ある行為としてすべての時間外的な価値を唯一の存在のできごとに加わらせることなのである。

   認識という、「存在のできごと」




●行為と責任

 現代の哲学の世界は、理論化された文化の世界なのだが、この世界と、行為がなされる生の世界とをつなぐ原理が存在しないのである。現代人が確信をもち、豊かで明晰たりうるのは、文化の領域の自律的世界とその法則のうちにあって、自分というものを原理的に閑却しているときなのだが、現実の一回かぎりの生において自分を相手にする場合、つまり自分が行為の拠りどころの中心となるときには、確信がもてず、貧弱で明晰さを欠くことになる。

  「行為する意識の理論」自体が、責任ある行為の実現。 学問は行為のはず。
  欲望が弱いとき、認識は曖昧なまま。




●行為と言葉

 存在のできごとは、関与的にかかわることによって初めて描写することができる。いかなる対象、いかなる関係も、そこでは単に与えられたもの、すっかり存在するものとしてではなく、それとむすびついた課題、「かくあるべし」「望ましい」とともに与えられているのである。純粋な所与というものは、体験されることがない。わたしが現実に対象を体験するかぎり、たとえば思考として体験するときでも、対象は、遂行されつつある思考という体験のできごとの、可変的な要因となる。つまり課題としての性質をおびる。より正確には、何らかのできごとの統一のうちに置かれる。

  語ることは、終わらない出来事の一環。
  あまりに無力なので、存在はなかなか課題にならない。




●人格と責任

 人間一般というものはない。わたしがおり、特定の具体的な他者――わたしの隣人、わたしの同時代人(社会的にみた人類)――がおり、現実の人間(現実の歴史的な人類)の過去と未来があるだけなのだ。
 自分にとってのわたし、わたしにとっての他者、他者にとってのわたし――現実の生と文化のすべての価値は、行為の現実的世界をかたちづくるこれらの基本的な結構上の点のまわりに配置されている。

  具体的な人間が生きているだけ。




●現代の危機の根源

 責任をもって志向する力はすべて、自律的な文化の領域(理論)に去ってしまい、この力から切りはなされた行為は、初歩的な生物的・経済的動機づけの段階にまで零落して、みずからの理念的な要因をまったく失っている。これが今日の文明のおかれた状況なのだ。文化の富はことごとく、生物的活動に奉仕することにつとめている。理論は行動を鈍重な存在のうちに置き去りにしたまま、そこから理念的な要因をすべてみずからの自律的な閉域に吸いあげ、行為を貧しいものにしている。ここに、トルストイ主義やあらゆる文化的ニヒリズムのパトスは発しているのである。

  凡庸な実践/空理空論 → 行動と認識のフィードバック