分裂的な分析と、スピノザ的内在

柄谷行人探究2 (講談社学術文庫)』p.186 より(強調は引用者)

 《感情は、それと反対の、しかもその感情よりもっと強力な感情によらなければ抑えることができない》(『エチカ』第四部定理7)。 これは、ある意味で、フロイトが宗教についていったことを想起させる。フロイトの考えでは、宗教は集団神経症である。神経症を意志によって克服することはできない。が、彼は、ひとが宗教に入ると、個人的神経症から癒えることを認めている。それは、ある感情(神経症)を除去するには、もっと強力な感情(集団神経症)によらねばならないということである。むろんフロイトは、神経症を集団神経症によって癒すことに反対である。困難であるとしても、個人的・集団神経症に対して立ち向かう方法がひとつある。それはスピノザのいったつぎのことである。 《受動の感情は、われわれがその感情についての明瞭・判明な観念を形成すれば、ただちに受動の感情でなくなる》(『エチカ』第五部定理3)。 つまり、それについて「明瞭・判明な観念」をもつこと以外には、受動性のなかにある状態から出られないと、スピノザはいうのだ。



内発的な分析衝動とその成果への確信が、ネガティブな感情より強いこと。
強度に成功した分節がなければ、制度分析という理念はルサンチマンの温床になる。



制度分析には、スピノザ的内在が統整的理念として必要だ*1

決して実現はできないが、くり返しそれを目指すしかない。
分裂的な分節が、どうにもならない状況そのものにおける内在的強度に成功しなければ、「制度分析」という理念への嗜癖が固着する。それは制度分析を実際に生きることではない*2
《制度を改編する》とは、まさに権力的なふるまいだから、「どうして同意してくれないんだ!」などと言うのは、噴飯ものとすら言える。 これは制度分析を考えるなら、真っ先に考えなければならないこと*3
改編しようとしたところで、基本的に合意はもらえないし*4、人を巻き込むから、手続きが必要だ。 また、自分が打ち出した方針が正しいと、どうして言えるだろう・・・・國分功一郎スピノザの方法』が描き出した、確信と説得をめぐる対立(スピノザvsデカルト)は、状況に内在する分析と改編についてこそ問われる*5



仮構すべきことは、置かれた立場ごとに違う

排除された人は、統整的理念として、「努力すれば何とかなる」と思い込まねばならない。さもないと努力プロセスが成り立たない。 現状では、「努力してもどうにもならない」というリアルな認識ゆえに、もっと潰れてゆく。
いっぽう有力者には、「排除された人が自分で頑張ったところでどうにもならない」という仮構が要る。 今は変な精神主義がはびこっていて、制度問題が放置される。

  • つまり、
    • 悩む本人は、自己責任論を仮構して内在化の努力を続けるしかない(そのつど、その瞬間の状況について)。
    • 決定権を持つ人は、「彼らがうまくやれないのは私たちのせいだ」を仮構して、改編の努力を続けるしかない。




*1:cf.「統整的理念(理性の統整的使用)と構成的理念(理性の構成的使用)」(柄谷行人

*2:制度分析という運動理念にあぐらをかき、「これを標榜してさえいれば、少数派でもいい」というのでは、党派的な過激派ごっこに終わる。それでは、ユートピア的理念に生身を利用する20世紀型マルクス主義と変わらない。

*3:説得できない相手を想定しないのであれば、詩的・人文的惑溺で終わる。 「俺がよいと思う詩を、お前は良いと思わねばならない」――これだけでは、政治や臨床の方法論にならない。

*4:既存制度に権益のある者はとりわけ従わない

*5:臨床/教育/政治について言えば、これは直接には《転移が起きない》悩ましさにあたる。 患者さん/子ども/有権者に対して、「数式で示したから、読めないのは君の責任」で終わらせるわけにはいかない。 知識をひけらかすことは、答えにならない(論じるみずからをその瞬間に内在化できていない)。