形式主義という実験ラボ

石川和広(@ishikawakz)氏 と 岡崎乾二郎@kenjirookazaki)氏 のやり取り。

石川 私小説の「私」っていうのは書く活動における「実験ラボ」みたいなものとしてとらえた方が良いですね。たぶんそうすると「命を懸けて書く」というと精神論的になるから言い方を変えると「私という世界に現象するものを記述する」とはいえる。
岡崎 そう遭難。 やっぱり命をかけて、書くのではないでしょうか? 先に私があるのではなく、書くことによって私が…いや、ちゃんとやれば自分の理性や意識が作り直され、変調、失調、喪失してしまうはず。それが形式主義の醍醐味。



形式のフレームをはめて、そこでひたすら没入するからこそ、自分が何をやっていたかに気づき、“遭難” する。 遭難した場所からしか取り組み直すことができない。
私はこれを、社会生活について考えようとしている。とりわけ、職場や親密圏について。
そうすると、どうしても合意形成の問題にぶち当たる。


ドゥルーズはある箇所で、法制(=契約思想)に対立するスピノザの立場に触れ、「諸力は、そのままで社会化の要素である」と断言している*1。 今の私は、むしろ強制力の設計こそが必須であり、それを伴わない「自由な編成」は、かえって自滅すると感じている。


《形式的強制力の適切な設計こそが、自由をもたらす》というのは、社会全体についてばかりでなく、主観性や中間集団についても言える――今の私はこのあたりで考え、努力を続けている。