番組内の発言より(大意):
- 本田由紀氏: 「まっとうな努力に応じて相応に成果を得られる状況づくりを目指すべき」
* 私は働くことがとても好きだし、楽しい面もあり辛い面もあり、色々な人と関われることにとても感謝して毎日仕事してるけど、「私、夢のある仕事してるな〜!」なんて思わないだけだよ。ものすごく「現実」だから。そこに私の誠意があるから。
* 人は夢を見させてくれるものに惹かれるけど、今回のアルバムの新曲書いた時「愛」って何?と考えて、愛は「現実を受け入れること」なんじゃないかなって思ったの。あるのは現実のみ。
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- 夢というより、《どういう現実を誤魔化したくないか》。 そこに愛がある。
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- 夢はむしろ、現実直視の側にある。
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- 単にあきらめれば、愛のない理不尽さにつぶされる*1。
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- 直面すべき現実は、「どういう繋がり方を要求されるか」にある。
関連メモ
短期的には、ひろゆき的にやるしかない。長期的には本田氏が重要。
いずれにも欠けているのは、目の前の課題設計。
「とにかく我慢しろ」では現状に支配される。 政策論だけでは、身近な努力が見えてこない。――私の提案は、自己管理と中間集団のからまり合いに注目すること*2。
仲間ができると、過酷な状況に耐えやすくなる(これは決定的)。 ところが仲間ができず、むしろトラブルばかり。 「仲間であること」の方法論は昔と変わっていないし*3、恐怖は仕事そのものというより、中間集団にある。
忍耐力を自慢する人の多くは、親密さのストックや成功体験を持っている*4。
孤立しか知らない人は、簡単につぶれてしまう。 かといって、大文字の運動論を持ってきても、おいそれとは馴染めない。
学者や知識人は大文字のテーマを語るが、身近な関係を論じる能力がない。
親密圏について、統計結果や成功体験を語るだけで、処方箋がない*5。
【参照】: 「社会関係の再分配が要る」(樋口明彦)
樋口氏のおっしゃる《再分配》がどういう意味なのか、ぜひディテールを伺ってみたいです。
私はそれを、「嫌だけど付き合ってやる」ではなく、関係性それ自体に着目する事業の必要と受け止めています。 親密圏を公共事業のテーマとして語る難しさはあるとして、そもそもこれは、若年就労だけの問題ではない(cf.「無縁社会」)。
不登校・ひきこもりに限っていえば、80年代以来、支援は「専門家」や「親」目線で語られてきました。そこでは、本人の営む関係性がどういう問題に直面せざるを得ないかが黙殺され、だからこそ、狭い論点設計しかできなかった。
今は元気な人もふくめ、孤立や排除が進んでいるのですから、就労や人間関係それ自体に夢を語ろうとするのは、議論としてチープすぎます。 (『私のしごと館』は、関係者がおいしい思いをするために押し付けられた夢だった。)
*1:あきらめたところで、直面せずにすむわけではない。
*2:「楽でオイシイ仕事でなきゃ嫌だ」というメッセージしか作れない人は、(外交に失敗する政治家のように)政治的ふるまいとしてダメすぎる。 自分が誰かを説得する必要に迫られている、というヤバさに気づいていない。
*3:「世代の新しさ」はまやかしでしかない。
*4:それはいつの間にか、ある特定の《つながりかた》を生きている。 ⇒「つながるとはどういうことなのか」について、暗黙の了解が多すぎる。
*5:「友達の作れるやつが勝ち」と、自意識を炊きつける自慢ごっこで終わる。 「コミュニケーション能力」と一元化して語るだけで、その能力がどういう実情を持つかを論じられていない。 (『父として考える (生活人新書)』の宮台真司氏が典型)