政治化、という処方箋

いただいたコメントより:

tokyocat しかし年を取ると、むしろこれに加え、「どうせ死ぬなら、今何を我慢する必要があるか」 「夢だけ追いかけて何が悪い」 「我慢して仕事しますか? それとも死にますか? ―死にます!」という選択肢もリアルになる。



次のような意見に、オフラインでもたびたび出会う:

  • (1)もうどうしようもないから、ひたすら居直って家族に扶養を続けさせる。ダメなら死ぬ。
  • (2)自分は病気でも障碍でもないはずだが、社会保障の確保を目指す。ほかにどうしていいか分からない。

もう少し計算高くなると:

 何をやってもうまく行かないなら、病気や障碍の役割に居直るしかない。不正受給と言われるだろうが、どうせこの社会は、ごまかした奴が一番オイシイ。弱者がうかつに頑張ったら、理不尽さのしわ寄せを一身にくらってしまう。



《病者/障碍者》の役割をもらえれば、再分配にありつける上に、人生をうまくやった人たちを福祉制度が叩きのめしてくれる*1。 経済的恩恵だけでなく、ルサンチマンの傷も癒せる・・・
なぜこもるしかなくなるのか、そのメカニズムを内側から考え直す努力は、弱者枠に居直りたい人には都合が悪い*2。 彼らは、しんどさを強いる問題意識なんか望んでいない。 自分の悩みを、そのまま肯定されたいだけだ(その「悩み方」こそが臨床的に問題だというのに)*3


斎藤環氏は引きこもり経験者の将来像として、「地方議員になること」を挙げておられる。
以下の動画末尾を参照:


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この発言が話題にならないのは、冗談にしか聞こえないからだろうが、
《政治》が「議員」でしかない貧しさは*4、当事者概念の貧しさに直結している。


《政治化=当事者化》が許されるなら、まずは自助系グループのトラブルにおいて、お互いが責任を負わなければならない。社会復帰の難しさは、このトラブルにこそ表れている。ところが取材者や関係者は、これを徹底的に「なかったこと」にする。 支援者が暴力をふるえば記事になるが、支援される側の不正*5は、黙殺される。
悩む本人が、半人前扱いされている。いわば被後見人のように、政治的責任主体として認められていない。その状態で、どうして「政治家を目指す」と言えるのか。


社会的ひきこもりの葛藤は、医療的であるより前に、思想問題のかたちをしている。
それを分派闘争と別のかたちで、政治できるかどうか・・・*6




*1:弱者擁護のメタ言説に依存するリベラル系知識人にも都合がよい。

*2:KHJ親の会』の政治運動は、名詞形の当事者概念(役割理論)で社会保障を得る努力に特化されている。

*3:その問題のある悩み方、つまりメタ言説ですべてを丸めこもうとする発想を、専門家も共有している。 「悩み方」と専門性が、持ちつ持たれつのマッチポンプをやっている。

*4:そこで標榜される政策は、「当事者」枠に居直った社会保障への要求でしかない。自分たちで関係を作ってゆく、という積極的な自由は、どこまでも忌避される。(自由を標榜する人間こそが、社会保障の敵なのだ)

*5:なかには、構成要件を満たす本物の犯罪もある

*6:精神分析の要求する《去勢》は、リアルポリティクスの必要において最も効果的に実現されるだろう。