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- 作者: 高江洲敦
- 出版社/メーカー: 飛鳥新社
- 発売日: 2010/04/08
- メディア: 単行本
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今ここにいる私は死ぬ前の体液。 と考えるとラク。
勤勉になれる。
【追記】
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- 人間ではないものとして、人間ではないように努力する
「人間的に主体化されるのが前提」という監禁状態。
「動物的でいい」というだけでは、触媒としての分析になることが許されていない。 単に動物的な状態は実はあるタイプの言説生産を押しつけられている。
孤独死の前の身辺整理をするように考えることが、有限な境界を与えてくれて楽にさせる。
【追記2】: レスポンスより
GrlldChsAsp: "人間ではないものとして、人間ではないように努力する" via http://j.mp/9XcdHv
10年位前まったく同じことをある「当事者の語りで構成される作品」の中でしゃべった、出来上がって来た「作品」において自分の発言は編集によって文脈変えられてた。それは→
GrlldChsAsp 悦ばしいアレンジではなかった。翼賛と承認について「許しがたい」と思うようなことに利用されたと感じた(想起すると今でも不穏な気分になる 文章化難しい)。抗議協議の結果自分の参加パートを編集でカット、という形で一応の対応がなされた。この件は未完。永久にかも
ものすごく思い当たる。
支援対象者は、「善良で無垢」を演じることを決められていて、自前の意味形成権がない。 「人間的」になろうとすればするほど社会復帰できない、という自意識の事情が理解されていない。
インタビュー記事などは、取材者や支援者に都合のよい発言に無断で書き換えられることがある。
ashibumi68: 死がせきたて=去勢として機能して勤勉になれるというのは決断主義的。けど腐敗していく体液というのは、そういう死とは異なり、逆にブランショ的な死の空間のように、何かすることから解除させるもののような気が…
まさしくそのあたりのこと。
「個別化された人間が追い立てられる」というより、人間になることを諦めた手探り。 本当の意味での象徴的生成はそっちにしかないと感じる。