「何をすれば勤勉に取り組んだことになるのか」

就労問題やひきこもりに取り組もうとする事業そのものは、どうあれば勤勉であったことになるのか。 やっつけ仕事のアリバイづくりばかりで、膨大な予算が惰性で流れ込んでいます。 「勤勉さ」のスタイル自体が間違っている――そこから考えなければ。
ひきこもり支援の場合、大まかなデータを整えたあとの本当に重要な試行錯誤は、人文的-臨床的な側面にある。 そのことに気付けないまま、なんとなく共同体主義で押し通そうとしたり、「とにかく笑顔で前向きな気持ちで行きましょう」などと言っても、そういう発想こそが暴力であり、自暴自棄的な怠慢に思えます。(支援される側も、そこでアイデアを出せないまま諦めている。)


「支援に取り組め」という前に、「何をすれば仕事をしたことになるのか」「それを言っているお前は安易な労働観でナルシシズムに浸っていないか」で徹底的に討議しなければ。 「日本社会では、こういうふうにやっておけば仕事をしたことになる」「これで順応できたことになるんだ」のその発想自体を対象化すること*1。 ベタな業務での勤勉を目指すというより、そういう検証をこそ根付かせなければ。
これは、頭でっかちの思考ではなくて、実際に他者に働きかけて説得していかなければならない、たいへんな重労働の変革仕事です。 政治的-臨床的な勤勉さと、「誰かの道具としての勤勉さ」を峻別すること。 そしてまた、そんな言い分を言い訳にしないこと*2



*1:単に戦術的な意識だけでなく、文化人類学的な問題意識。 とはいえ逆に言うと、「文化人類学的だから」と居直ることもできない。

*2:身動きが取れなくなっている人は、まちがった勤勉さのイメージに自分を監禁している。 「何が勤勉なのか」の思い込みを解体し、風通しを良くする必要がある。