専門性と換骨奪胎

  • 《制度》としてのベタな専門性に対して、メタな(transcendental)目線や、メタを含んだ換骨奪胎的な(transversal)試行錯誤は必要だが、それが特定の専門性に入門できない無能力(無活動)をしか構成しないのでは、どうしようもない。神経症的に孤立したメタは、「何もしない口実」の単純な硬直にしか見えない。


  • 専門的な分節化が必要ないわけではない。問題は、その分節化がどのような態度で生成してゆくか。単に横に関係が複雑化するのではなく、現場とメタ的分析の往復による環境と自己自身の換骨奪胎、それが相互に干渉しあうことによる複雑化*1、その都度その都度のリアルタイムな風通しの生成。 それは、恣意的な融通無碍ではあり得ない。 単なる順応的勤勉も*2、恣意的な怠慢もかえって風通しを悪くする。 複雑高度化の、必然性のスタイルが問題になっている。


  • 「ジャンル論」としての制度論が要る。 ディシプリンに従順なままに「複数のジャンルを知る」のではなく、ジャンルの成り立ちを分析する中でその分析自身に出会いが生じる必要がある。(孤立すればその分析は死に絶えるしかない、単に「頭がおかしい」と言われるのみ。) ▼そのような、換骨奪胎的な分析を通じてしか「入門」できない人がいる。(具体的なトラブルを通じてこそ、関係者の生きている《制度》が透けて見えることがある)




*1:リゾーム」というのは本来そういう意味では?

*2:単なる勤勉は、それ自体として一つの怠慢だ。(とはいえ、「勤勉自体が怠慢だ」というテーゼは、それ自体が単なる怠慢の言い訳になってしまうが。)