Be動詞の「当事者」から、活動形の分析へ

私が活動のチャンスをいただいたのは、「当事者」という枠組みによってだった。 しかし、実は当事者という言葉で私を受け入れた人たちは、ご自分についての分析、という意味での当事者性を拒否する*1
「○○の当事者なんです」と自分の弱者性を名乗り出る人は、自分のことを分析することが全くない、というよりそうした分析を拒絶するアリバイとして「当事者なんです」と名乗っていることがある。 それは、「私は××だからそれをやっていればいい」という役割還元的な思考停止と変わらない。
自らの《現場性=当事者性》にこだわり、リアルタイムの自己確認にこだわればこだわるほど、問題意識は排除されがちになる。 自分を「支援者」「当事者」と位置付けて安住したい一部の人たちは、私をBe動詞の「当事者」に囲い込み、自分たちの役割固定的な当事者論を私に押し付ける*2。 ここでは、役割制度そのものに介入する活動形の分析は排除される。
役割カテゴリーに落とし込まれた真剣さのナルシシズムがまずい。(ここで「キャラ化」は、害悪でしかない。)





*1:私に「当事者発言」を要求する人は、たいていご自分の失態やウソを隠そうとする。 私に要求した “当事者発言” を、ご自分でやろうとはしない。 ここでの「当事者化」は、《自己の体験の素材化》という倫理的契機を失っている。

*2:「上山は自分をひきこもり代表であるかのように思い込んでいる」「あれのどこがひきこもりなんだ」云々。