《読み合わせ》

三脇康生は、ドゥルーズカルメロ・ベーネ*1竹内敏晴を参照しつつ、《読み合わせ》という発想を語っている(参照)。
《読み合わせ》である以上、それは一人で行うことはできない。 与えられた脚本を絶対の超自我とする順応主義では、ここでいう《読み合わせ》にならない。 単に恣意的に放言するのでも、「前向きになればいい」というのでもない。 協働での制作において、分析と改編が同時に進められるような、試行錯誤の場の共有。 各人が自分で分析(n-1)を進めるのでなければ、誰かの分析は孤立する。
メタ言説への居直りも、ベタな当事者性への居直りも、読み合わせの試行錯誤を無視している。 その防衛的な、役割同一的な自己愛については、具体的な交渉技法が要る。(これはそのまま、ひきこもりの臨床論だ。)
過剰流動的な現実に対しては、「演じ分け」という解離ではなく、「読み合わせ」という試行錯誤的な取り組みが必要だ。