秋葉原事件・関連メモ

自滅的な殺意や自殺願望については、《取り組む》という要因の破綻が決定的。 手続きが見えないまま無力であり、アクセスの方法が極端に狭められている。 主観的・客観的な「アクセスポイントのなさ」そのものに取り組む必要がある。 政治的-臨床的な、具体的な技法が要る。


自他の真剣さへのアクセスの仕方が分からない。 真剣さはそれ自体ではアリバイにならないのに、「本当に真剣だから承認されるべきだ」では何の批評もない。 自分の真剣さを主張するのに、極端な行為しか思いつけなくなっている*1
いっさいを真剣に受け止めない「80年代→社会学」のあと、真剣でありさえすれば何でもかんでも受け止める現在*2。 幼稚というよりは解離的。
その真剣さは、「自分のこと」か「メタ理論」しか語らない。 「それをやっている自分自身の事情」への分析がない。単に自分のことを語るのはそれがメタに承認されているからだし、単にメタ理論を語る人は、その自分の真剣さに誰の批評も介入させない。そして、80年代的に「真剣ではないあり方を承認しろ」というのも、実はメタレベルではアリバイの真剣さを承認させようとしている。そのスタイルが2000年ごろに破綻して、当事者本とメタ理論という「単なるベタな真剣さ」に解体したように見える(そこでしか恒常性を担保できない*3)。

いずれも、自分の真剣さのナルシシズムに酔うばかりで、真剣さのスタイルについての分析がない。誰の言うことも真に受けないシニシズムと、どんな叫びも真に受ける心情主義が支え合い、全員の「独りよがり」が共同で支えられている。世代論は、ルーチン化した真剣さのスタイルを描いているが、むしろ必要なのは、ルーチン化の打破を検討することだ。メタに居直って現場を見下すのではなく、また現場的であることに居直るのでもなく、自分の取り組み方を検証すること。 メタに居直ったつもりになっている人も、すでに現場を生きている*4


以下、識者コメントへの違和感。



東浩紀 http://tinyurl.com/6k4aco (魚拓)

事件が起ろうがどうしようが、何も考えないのが動物化した社会のはず。 幼稚さをたしなめ、人間的対応を勧める東浩紀は、キャラクター化とヤンキー文化を肯定していた彼と解離している。
「真剣に考えるべきだ」というのは、治安強化には反論していても、臨床的には何も言っていない。 「真剣さ」は、むしろメタ批評に淫する人たちの防衛機制になっている。 自分たちの営みや関係の作り方については、何の分析もない。
東は、ベタな当事者性に対してメタ理論をぶつけているが*5、単なるメタ理論は、それ自体が「真剣さ」の党派であり、解離的に「単なる当事者主義」と同席できる。 メタ理論自体が、ベタな真剣さという当事者性を生きている。
真剣さのスタイルが、周囲と具体的にどうつながっているのか、ローカルでリアルタイムな分析が要る。 メタ理論を語れば、それで「真剣に考えた」ことになるのか?



宮台真司 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=651

「若者文化の変質」というが、若者文化がどうであろうがそこに入っていけない人はいる。そういう者にとって、「同世代の若者の街」は居場所などではなく、激しい疎外を感じる「異教徒たちの世界」でしかない。わざわざ大文字の「若者文化」を語ることに、牽強付会を感じる。
「最大の問題は社会的包摂性」というが、包摂性というのは、単に受容的な態度をとっていてもどうにもならない*6。 包摂の問題をマクロな文化やシステムの問題として語るだけでは、本人が内側から《取り組む》要因と、周囲のそれとがどう出会うのかという現場的なモチーフを扱えない。

宮台の臨床的アドバイスは、「自意識を自意識で克服する」という孤立したスタイルであり、成功は事後的に神秘化される(ミメーシス)。 身近な関係性は分析対象ではなく、自意識は一気に全体性に接続する(エリート)。 ▼宮台自身は、みずからの推奨するナンパで空しくしかなっておらず、救済をもたらす出会いは “偶然に” やってくるしかない(参照)。 よく考えると、ここでは「修行」と「救済」は解離している。

ひたすら自意識を目指すこうした文化は、それになじめない人間にとって極端に非寛容であることに、宮台自身がまったく気付いていない。そこで「あえてやっている」と言ったところで、その発言自体がまた自意識に還帰している。 自意識以外の社会性(アクセスや連帯の仕方)をぜんぜん扱えていない。





*1:システムにすべて収奪される過剰流動性の中、主張はすぐに解体される。なるだけ極端な体験による「当事者性」と、一度獲得したカテゴリーとしての「当事者性」が、自分に恒常性を与えてくれるように見える。その恒常性は、システムに承認された時点で、逆に自分を幽閉する。

*2:70年代的な新左翼主義がそのまま回帰しているようにも見える。

*3:「恒常性」については、樫村愛子ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)』を参照。

*4:メタに居直っているのは、学者だけではない。カテゴリーとしての弱者性への居直りは、極端に「メタ的な」態度だ。

*5:NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本』p.7

*6:ひきこもり支援で、「ありのままに」が一部にしか機能しないように。