倫理的態度の受傷性と、制度的強制力

ひきこもっている人は、交渉主体としては極端に無能で脆弱な状態にあるが、実際に生き延びている以上、何らかの「力関係」を生きる当事者といえる(参照)。 問題は、そこで生きられる力の構造が、本人の意識を実体化する形で硬直していること*1。 その力関係を解体したりほぐしたりすることは、単なる「権力奪取」ではなく、自由な関係の再構築であり得る。 無力さゆえの硬直に「されるがまま」になるのではなく、お互いの関係自体に自力で創造的に関与すること。


以下、三脇康生の論考精神科医ジャン・ウリの仕事──制度分析とは何か」*2を参照しつつ、関係への解体構築的な関与について、考えてみる(強調は引用者)。

 ウリの立場に立つならば、ラカンの打ち立てた純粋精神分析を、それぞれの精神分析の学派が継承し、それを施設の中で応用するのでは、ラカン派の精神分析の一番ビビッドな部分を取り逃がしてしまうことになる。 応用するだけでは、その場合、instituton*3は施設という意味になってしまい、フランス語の établissement に相当してしまう。 そうではなく institution(日本語では「施設」と訳されがちであるが、そのようなハード面ではなく)とは、制度分析が成り立たせる(ハード面だけでなく雰囲気などのソフト面も含んだ)「場」であり、ウリはラカン精神分析を「場」で用いられるようにしたものだと制度改編主義精神療法のことを考えている。 (p.46)

ここで「場」と言われているものは、「関係」とか「システム」に重ねられると思う。
つまり、「一定の形で反復的に演じられる関係のフレーム」。

 また一気にガタリはつぎのような主張も行なっている。 「制度改編主義精神療法の目的は、超自我を「受け入れる」条件を手直しして、「制度に入るための」一種の新たな受け入れになるようにその条件を変え、ある種の去勢手続きという最も盲目的な社会的必要性から、その意味をはく奪する、というものではないか」。 つまり、言わば超自我の変更が可能になるというのだ。 (p.54)

赤字にしたところが最も重要で、かつ最も理解しにくい。
ひきこもりは、「ひきうける」という心の営みの不能状態であり、それゆえに制度的関係に入れなくなっていると考えれば、ここは本当にキモの部分だ。
単に《順応》するのではなく、お互いの関係を律する制度自体をお互いの関係の中で創造的に組み替えてゆくような取り組みが問題になっている。


去勢スタイルが最初から制度的に決定されているのではなく、去勢スタイル自体が創造される、その生成プロセスに参加していいのだということ。ある去勢スタイルに順応することで「参加する」のではなく、去勢スタイルの生成自体に参加する。
それは、自由を目指すことでありつつ、単なる恣意性や弛緩ではあり得ない。むしろ、最高度の必然性を形作ろうとする(今の私はそんなふうに理解している)。


ラカン派の精神分析では、この「去勢フレーム」が一定のスタイルで決まっていて、それに順応するしかないように感じられる*4。 去勢スタイルが決まっていれば、それに順応することでナルシシズムが保障されるが、それは同時に、そのナルシシズムに閉じこもることでもある*5。 私はそのことに息苦しさを感じている。



*1:【参照】:斎藤環ひきこもりシステム」、「実体化させられている

*2:岩波書店 『思想』 2007年 第6号 No.998掲載

*3:フランス語で「制度」

*4:二者間の分析技法においては、《分析家−分析主体》の関係枠がフレームとして決められている。それゆえにこそ持ち得る深度と、それゆえに動かせない力関係の窮屈さとがある。 【参照:ラカン派である斎藤環による去勢論メモ

*5:私が斎藤環に感じる疑問もこのあたりにある。