「間主観性」と、お互いの有限さ

 時間と行為については、フランスの精神分析ジャック・ラカンが紹介する三人の囚人の話がよく知られています。 なぜ精神分析において時間が本質的な意味を持ち得るのか。 これは、間主観性(他人が自分と同じような心を持つ存在であると前提した場合の、主観性のあり方)というものの成立が主体の有限性によって可能になっており、主体の有限性はまさに時間によって規定されているということが、きわめて論理的に示された寓話として重要です。 (斎藤環ひきこもり文化論』 p.90、強調は引用者)

ここで注意したいのは、「間主観性」という概念。 交渉というフレームは、間主観性にもとづいて、お互いに納得できる状況のあり方を探ること、といえる。そこで重視されるのは、一方的な不当さがないこと、つまり「公正さ」*1。 避けがたい交渉関係*2に巻き込まれた人間のうち、ある者だけがその交渉関係を否認することは、その者が自分を「無限なもの」として示し、他の者を一方的に有限化し、道具的に利用することになる*3
一人の無限さに、他の者が不本意に従わされる。 そこに対等な交渉関係はない。 それゆえ、交渉関係の確認は、お互いの決めたルールにおけるお互いの有限さを確認することでもある*4。 有限さのそれぞれの度合いは、参加していることになっているゲームのルールが決める。 力関係は、相手を一方的に強者のゲーム(ルール)に巻き込む。 有限さがあってゲームがあるのではなく、ゲームのフレームが有限さを決める(フレームは恣意的に決められない)。 ゲームを降りることができれば自由になれるが、降りることができなければ、間主観的状況の調整(交渉)が必要になる。





*1:ひきこもりに関する「公正さ」は、斎藤環が2001年12月の段階で提出している。 cf.『ひきこもり文化論』 p.164、168

*2:その関係から抜けられないことが、「ダブルバインド」の必須条件。(参照

*3:本人同士の納得においてその「理不尽な」抑圧関係が続く場合には、明示的な公正さとはべつのロジックで交渉・契約関係が維持されている(SMプレイなど)。 ▼マルクスの搾取論は、「労働力商品の公正な取引は、不公正な関係になってしまう」という議論だったか。

*4:宗教的神秘化では、教祖などの特異的な個人の体は俗世的な(社会的な)有限性と、端的な無限に二重化している(cf.宮台真司など)。 ▼世界にはどうしようもなく「端的に理不尽なこと」が起き続け、その位置づけがずっと有限な意識を悩ませる(意識の有限化は屈辱でしかない)。そこに無限を説く者が入り込む。宗教者は、現世的な有限性(言語や作品)に無限を帯びさせる。 ▼ひきこもりの場合、無限をうまく繰り込むことができず、それが去勢受容の失敗になっている。 【去勢とは、「無限をいかに繰り込むか」ではないのか。】