「戦術的状況を維持できない」という根本問題

ひきこもっている人間は、明示的な交渉抜きに「扶養される関係」を継続している。追い詰められた最後の姿として、自分を有限化する交渉関係自体を破綻させ、自分を「破綻した有限」か「沈黙する無限」として示すことで*1、有限化のコントロールを破綻させ、弱者が威圧する関係を作り上げる。そうしたプロセスが、本人の自覚的戦術とはちがう形で、ほとんど「解離」のように進行する。
それを「甘えている」と言うのはたやすいが、そこで本当に問題になっているのは、「戦術的状況を維持できない」ということ(参照)。 「甘えているのだろう」という指摘は、直接の交渉関係を持たずにすむ外野席だから言えるセリフで、直接扶養を継続せざるを得ない家族や、長期的な社会復帰に協力しなければならない支援者にとっては、実効力のある交渉戦術として役に立たないか、逆効果になる。(多くの家族は、まずは説教を試みる。そもそも、周囲の威圧的な交渉術ゆえに本人が破綻している可能性もある。)
「甘えるな」と言われることまで含めてゲームの一環と考えたときに、それをやり繰りして乗り切ってゆく戦術的能力を持たない。 ひきこもりや不登校全面的に肯定することはできても、交渉能力がないことについては、「それでもいいではないか」とは言えない。どんなユートピアが訪れようとも、各個人には交渉の必要が残る。 自分の力で取り組むことも、取り組まないで投げ出すことも、他の人間との関係に置かれている。
「君には交渉能力は必要ない」というのは、庇護者=支配者のセリフだ。



*1:とはいえ、「戦術としてそれを選択した」わけではなく、「そうするしかない」という惨めな姿。