バフチン「応答責任の構築学」

ミハイール・バフチーンの世界』 p.89-94 より(強調は引用者)

 1918年から1924年の間に、こうした主題をめぐるメモが、どれひとつとして完成していない一連のテクストの中に示されることとなった。 これらのテクストはそれぞれ違った著作の断片ではない。 むしろ、ある一冊の本を書くためのさまざまな試みを示している。 バフチーン自身はその本に題名を与えていないが、ここではそれを『責任の構築学』〔あるいはバフチーン流の語源意識で言えば「応答責任の構築学」〕と呼ぶことにする。
 この著作は明らかに哲学的ではあるが、ふつうの哲学論文の範疇にはうまくあてはまらない。 これは日常体験の世界における倫理を扱った論文であり、いわば実用主義的価値論である。 倫理的活動は行為として捉えられる。 ここで強調されるのは、行為がいかなる結果を生むかということ、すなわち行為の最終的産物ではなく、生成過程にある倫理的行為、つまり行為と呼びうるような出来事を創造あるいは創作しつつある行為である。 (中略)
 自己というものは、特定の環境にたいする生命体全体の特定の反応として捉えてみると――反射のような、脳が単純な刺激に反応するというレベルから、社会的交流のなかで精神がほかの自己たちに応答するというレベルにいたるまで――定義からしてそれ自体ではけっして完結していない。 未進化の原生動物が、泳いで栄養をとりにいくための溶液を必要とするのとまったく同じように、より高度なレベルにおいては、自己は自分の責任を支えるために社会の他性からの刺激を必要とする

意識が孤立に向けて解離すれば、責任は見えなくなる。(ひきこもり)
むしろ、責任という概念自体に耐えられなくなっている、それに益があると思えなくなっている、でもどこかで罪悪感におびえている、・・・・というあたりのこと。