器質的主体(OS)と、精神分析的主体(PS)

OS は「Organic Subject」、 PS は「Psychoanalytic Subject」の略。


人間の認識は、「同一性」の認識と、「差異性」の認識に大別できる。
「同一性」に対しては脳の器質的なものの機能が優位。
「差異性」の認識については脳は無関係で、ソフトウェア的なものが優位。
心が差異性に強いのは、言語的な構造を持っているから。*1
――これがいちばん基本となる仮説であり、「記述の限界」設定をする2つの基本概念。
つまり、人間の主体を考える場合に、器質的な方法から記述するか、精神分析的な方法から記述するかの2通りがあり、それぞれに記述の限界を抱えている。 この2つの記述限界のそれぞれを、十分に検証する必要がある。


(配られた斎藤環氏のレジュメに記載されている表を引用)

OSPS
器質因(ハードウェア)心因(ソフトウェア)
同一性に反応差異性に反応
自然科学的因果律*2構造的因果性*3
予見可能性*4事後性*5
コミュニケーションは可能*6コミュニケーションは不可能*7
階層性*8非階層性*9
文脈と学習*10言語(症状)と反復

    • 因果律には、「自然科学的」と「構造的」の二種類ある。 心の動きを見る時にはどちらも欠かせない。
    • 心の問題を脳科学に還元できるなら、心は物質科学ですべて予見可能になってしまうが、それは実際には不可能。 ひとつの体験がどのような行動や症状をもたらすかについてのパラメーターが多すぎて、「複雑系」とか「量子力学」とかでお茶を濁すほかない。
    • オッカムの剃刀(かみそり)」(説明原理は少ないほうがいい)という科学の考え方があるが、仮説を節約するためにも、一方向からの説明原理に固執して過剰に複雑化するよりは、双方向性があったほうがいいのではないか。
    • 脳神経系という階層的なハードウェアの上で、非階層的なソフトウェアが作動している。




■それぞれの記述限界について。

  • OSの側で可能になっているのが、「文脈の認識」と「ものごとの学習」。 なぜこれが起こるのかは、PS側からは記述できない(「なぜか起こる」としか言いようがない)。 あるいはラカン的に言えば、それは「現実界で起こる」としか言いようがない。 ラカンの記述用語には、「学習」とか「コンテクスト」に相当する語はない。
  • 逆に、精神分析の中核にある「言語」「反復」については、なぜそれが起こるのかをOS側の記述用語では説明できない。


 「赤のクオリア」とは、「赤の赤らしさ」(≒同一性)を感ずるときの「同定感」に対するメタ認知を、PSの側から記述したものである。 「言語」や「症状」についてのクオリアが生じにくいのは、こうしたメタ認知が生じにくいことによる。 (斎藤氏のレジュメでの説明より)

純粋な差異性の認識に対してはクオリアは生じない(仮説)。
「赤の赤らしさ」などの場合には、余裕を持って「味わっている」状態。 余裕のない状況での「クオリア感」は生じにくい。


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*1:斎藤氏の仮説

*2:「原因には結果が伴う」

*3:原因があっても結果が伴うとは限らないが、結果には原因が伴う(事後的な認識)。 【たとえば、いじめは必ずPTSDになるわけではないが(重層決定)、PTSDには何か原因がある。】 フランスのマルクス主義思想家アルチュセールの用語。 ▼「事後性の科学」としてのフロイト/ラカン精神分析の根幹をなす説明原理。

*4:再現性がある

*5:予見性はないが、ある種の「結果」について原因を探索する場合には、自然科学以上に威力を発揮する。

*6:脳やコンピューターは接続性が高く、たとえば2台のコンピューターは接続して1台として扱うことすら可能。

*7:「事実としては可能だが、原理としては不可能」。 なぜなら、心と心はコードを共有していないから。 コミュニケーションは言葉を使うが、言葉は多義的で文脈依存的であり、一義的に決定できない。 意味を推測し合って「たまたま一致」すれば会話が成立する。

*8:「サブシステムを持つ」「メタレベルを持つ」。 【cf.大脳皮質は、全哺乳類を通じて六層構造をもつ。】

*9:心については、メタレベルはない。 【cf.「メタ言語はない」(ラカン)】

*10:ラカンの用語には、この2語に相当する語はない。