クオリア問題

いま、心脳問題のいちばんクリティカルな、重要なトピックと考えられている。
日本では茂木健一郎氏が旗振り役。


「主観的質感の起源を脳内に求めることが可能か?」という話。

 クオリアとは、「赤の赤らしさ」や、「バイオリンの音の質感」、「薔薇の花の香り」、「水の冷たさ」、「ミルクの味」のような、私たちの感覚を構成する独特の質感のことである。 (「クオリア・マニフェスト」)

今この瞬間に感じている固有の感覚。
いわば、赤の赤らしさを認識している心の働きに対する感覚。


クオリアがなぜ科学の言葉に翻訳しにくいかといえば、科学は「普遍性」を扱うためのツールだが、クオリアは「固有性」を扱うものだから。 固有性は、通常の科学の記述限界を超えている(固有性は科学に馴染まない)。




以下、「クオリア・マニフェスト」より*1

 私たちの心(mind)の中の様々な「クオリア」(qualia)に対応する物質的過程の性質を明らかにすること、あるいはこのような「対応関係」のメタファー自体を超えることが本質的である。 この作業は、自然科学を従来の客観的視点に立った自然の記述のみを目的とする物理主義の科学から脱皮させ、主観的な視点の起源をも視野に入れることを伴うだろう。 すなわち、私たちは、私たちの心的現象をも、自然現象の一部とみなし、心的現象をも自然科学の記述の対象とするのである。

ものすごく大胆なことを言っている。 ほとんど科学の否定。


「私の心」という主観性の構造を、どのように科学的に位置づけるかという終着点をもつ議論であり、実現すれば大きな革命であることは間違いない。 しかし、主観的なものを科学がどう扱うかについては、もう少し慎重な議論が必要ではないか。



ホムンクルス」批判

ホムンクルスとは、脳内に主観性の座を想定する仮説*2。 しかしこれでは「ホムンクルスの中のホムンクルス」を想定することになり、無限後退に陥ってしまう。 これに対して茂木氏:

 自己の内なるものの関係性を、「外」にあるかのごとく認識するというメタ認知のプロセスを通して、ホムンクルスの「小さな神の視点」は生み出される。 すなわち、「メタ認知ホムンクルス」とでも言うべきモデルに到達するのである。 (茂木健一郎脳内現象 (NHKブックス)』より)

これ↑をよく読んでみると、「ホムンクルスは、事後的に投影されたニセの表象だ」という話になっており、事実上のホムンクルス仮説の否定になっている。



河本英夫システム現象学―オートポイエーシスの第四領域』より*3

 活動の内感の一部を認知というかたちで述べたものが、クオリアである。 ところがクオリアを知ることは、活動のごく側面的な一部でしかない。 情報ではなく、調整能力という別立ての働きの領域、すなわち行為の領域が示されているだけである。 緑色の情報とは異なるなにか(情感など)を感じ取っているのは、おもに認知と感情が連動する側頭連合野に依存した働きであり、クオリアは情報としての認知がそもそも行われていない事態を、あらかじめ情報に帰着したために起きた擬似問題である。

脳の活動の過程を、脳の別の部分がメタ認知する。
その過程に対する感覚がクオリアである、というのが河本氏の説明。
赤を「赤い」と認識するのはふつうの神経過程だが、その神経過程そのものに対する認識を「クオリア」と呼んでいる。 何かを認識したという実感・手ごたえ。 つまりクオリアは、それ自体が「メタ認知」という側面を持つ。



「顔のクオリア」はいかにして可能か?(斎藤環氏の問題提起)

顔の認識というのは非常に奇妙なもので、コード化されていない。 赤なら「赤」という言葉が、木なら「木」という言葉が同時に浮かぶが、顔の場合は「顔」という言葉ではなくて、その人の名前などが思い浮かぶ。
顔の同一性は、情報やパターンではなく、「その人の固有性」としか言いようのないものとして認識されている(そうでないと、何十年ぶりに再会した同級生の顔を誤りなく認識するのは不可能)。 安全管理などの「顔認証システム」はあるが、これは情報に依存するタイプのパターン認識であり、変装を見破ることができない。 かなり大雑把な認知パターン。 ▼「顔の“顔的なもの”」(顔のクオリア)は、どこから来ているのか。 顔の認識は、同一性と差異性の双方に開かれていて、「赤を赤と認識している」のとは違った事情になっている。







*1:斎藤氏のレジュメに引用されている

*2:もとはケプラー

*3:斎藤氏のレジュメに引用されている