「心の活動は、脳の活動に完全に翻案できるか?」

大まかな比喩としてパソコンで考えてみると、次のようになる。

    • 器質因: ハードウェア(CPU)
    • 内因: オペレーション・システム(WindowsMacOSなど)
    • 心因: ソフトウェア(アプリケーション)

パソコンが故障した場合、私たちは「どのレベルの異常か」を考える。 アプリケーションの異常ならば再起動や再インストールでよく、ハードウェア自体をいじる必要はない。 部品そのものが壊れているなら、物質そのものに働きかけるしかない。 どのレベルの異常かによって、アプローチの仕方が異なるのは、人の場合と同じ。 心に起きている異常について、常にそれを脳髄の問題と考えるのは、「アプリケーションソフトが誤作動するたびにハードウェアの異常を疑う」ようなもので、無駄すぎる。


ヒステリーにおいては、ありとあらゆる多彩な身体症状がリアルに出現するが*1、ハードウェアとしての身体にはどこにも異常がない。 これはあくまで「心=ソフトウェア」レベルの問題で、だからカウンセリングが有効。 「多重人格」は、見ようによっては現代的なヒステリーのひとつの形式ではないかと言われている。


ベルクソンは、脳と心の関係を「ハンガー」と「そこにかかっている洋服」にたとえた。 ハンガーが壊れれば洋服は落ちてしまうが、だからといって洋服とハンガーは同じではない。 洋服をかけるためには(心が存在するためには)、ハンガー(脳)が必要だが、心と脳は同一物ではない。


たとえばワープロソフトでは、Windows マシンから Macintosh に乗り換えた場合、ハードウェアもOSもすべてまったく違うものになるが、アプリケーションとしては同じ機能が期待できる。 これは精神分析に近い考え。 たとえばジジェクは、「人間が人間であるためには、脳髄が人間の脳髄である必要はない」という*2。 映画『ブレードランナー』では、レプリカントという「人間もどき」が出てきて、「自分が人間かどうか」で悩むのだが、ジジェクによれば「過去の記憶を持っていて内省できる存在はすべて人間である」。 だからレプリカントは人間だというのだが、これはある意味で正しい議論。 つまり、人間というアプリケーションが動くハードだったら、人工的な脳髄であってもかまわない。――これは、心脳問題をクリアする突破口のひとつではないか。

 ある症状を示す精神疾患で、その症状に対応する脳の放電が見つかったとして、症状と放電は同一物とは言えない。 放電が症状に変換されるまでにはいくつかの段階が考えられるため、他の部位の放電が全く同一の症状をもたらす可能性を権利上は否定できない。 (斎藤環氏のレジュメより)


  • アンリ・エイ(Henri Ey)の問題提起:「器質−臨床的隔たり」
    • 器質因と症状の対応関係が、必ずしも明確なものではない。 たとえば自閉症との関連がしばしば指摘される fragile-X syndrome にしても、その器質因がもたらす結果はかなり多彩なものである。 あるいは自閉症と同じ症状をもたらす脳の器質的異常が複数知られている。いずれの例も、単一の器質因と精神症状を一次結合させることの不当さを示している。 (レジュメより)








*1:「歩けない」「腕が麻痺」「目が見えない」など

*2:【斎藤注】: あくまで思考実験であって、実際には(まだ)無理。