学問の倫理としての「記述の限界」

《記述》というのは、科学や精神医学でよく使う言葉。
真実を「発見する」のは科学の重要な機能であるとして、「いかに現象を記述するか」というのが非常に大事。 「記述の限界」を踏まえなければならない。 「このパラダイムでどこまで記述できるか」「ここから先を記述してよいのか」――そういう限界を踏まえるのが学問的倫理観だが、脳科学者が行きすぎると、「記述の限界」をやすやすと踏み越えてしまう。


脳科学について、大衆向けではない専門的な本を読むと、人間の社会的な行動を記述するレベルにはまったくたどり着いていない。 せいぜい原始的な「物の認識」「腕の上げ下げ」などについてのみ(このあたりが限界にも思えるが、未発達なだけかもしれない)。――にもかかわらず、脳科学者たちはすぐにその先に突っ走ってしまう傾向がある。
「子供の脳にいい子育て」とか、「脳トレのゲーム」などがよく語られるが、こういうのは諸刃の剣で、脳にいいゲームがあるということは、脳に悪いゲームもあることになってしまう*1。 そこから「ゲーム脳」まではあと一歩。
ゲーム脳」というのは、森昭雄という人が思いつきで作り上げたニセ科学だが、「ゲームは脳に悪いに違いない」と思い込みたい人が多いために、一定のお墨付きを与えた。 本としては非常にお粗末なもので、これについては私(斎藤)は、ウェブ上に詳細な反論を公開している。 森氏は、「ゲームをした人は脳波に異常が出る」というのだが、脳波の測定の方法、脳波の解釈法など、ことごとくが教科書レベルの知識すら欠けた内容になっている。 つまり森氏の議論は、「ロジックの間違い」ではなく「知識の間違い」。 致命的で、話にならない。 そういうレベルの議論がまかり通ってしまうぐらい、「脳」というのは危険なキーワードといえる。


最近では精神科医岡田尊司氏が、『脳内汚染』というとんでもない本を書いている。 「子どもたちの心が、コンピューターやゲームから脳に入ってくる情報によって汚染されている」という“画期的な”新説。 つまり「情報がウイルスと同じ働きをする」と言ってしまっている。 困ったもの。
岡田氏は脳科学の専門家ではなく、医療少年院精神科医。 理系出身者が脳について語ると、人文系の人がありがたがって受け入れる、という困った図式がある。 この「脳内汚染」という本については、有名なフランス文学者・鹿島茂氏が絶賛した*2ことで広まったいきさつがある。 ここらへんに、文系と理系のデバイドを感じる。
人文系の人はいつもはシニカルなのに、「脳」というマジックワードを出されるとあっさり陥落してしまう。 「脳については大したことはまだ何もわかっていない」という現状認識は、もっと共有されるべき。 すぐに議論が飛躍してしまうのが、脳科学ブームの困ったところ。