人称なき強度としての分節過程は、固有化に必須の回路である

志紀島啓氏:

フリードリヒのものはフリードリヒに―最晩年のニーチェにおける諸強度と固有名

 スキゾの固有性にこだわった書物としての『存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)』と
 スキゾの諸強度にこだわった書物としての『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)』。
 「アンチ・オイディプス」を一言で言うとシニフィアン専制から人称を欠いた諸強度を解放となり、
 「存在と時間」を一言で言うと「誰のものでもない生(ダスマンの生)に固有性を奪還することとなります。
 両者はちょうど正反対の主張をしていることになるのです。 〔・・・〕
 これが20世紀思想の構図であったと考えることができます。



人称を欠いた強度と固有性の関係をどうするかに、思想の決定的分岐がある。


制度分析や分裂分析では、人称なき強度としての分析プロセスが、実体的固有名の代わりに打ち出されている。
「患者の固有性を守ることは、人称なきプロセスの必然性や柔軟さを救済することだ」という前提になっている。
精神分析のレディ・メイドの解釈格子に抵抗するのも、新たに生じる分析過程の特異性、その過程強度を守るため。


放置すれば私たちの主観性は、資本制的な生産様式・生産関係に巻き込まれたままで、過剰に分断され、画一化・平準化される*1。 いわゆる発達障碍化において、生産の様式と関係はアルゴリズムに還元される。

そこでウリ&グァタリは、固有名を実体として救済するのではなく、人称なき分節プロセスを救済する(患者さんについて、またスタッフ自身について)。 非人称の分節強度が、固有性のための必須の回路になっている。 これをグァタリは 《特異化 singularisation》 と呼ぶが*2ソーカル的立場からは、「非人称の分節は、科学・数学・論理学しかあり得ない」となるだろう。 もう少し的確に言いたいので、消しておきます。すくなくとも、「概念を厳密に使え」というだけの視点では、プロセスの意義をプロセスそのものとして考察することは、難しいはず。(エントリ直後の追記)


固有性回復の回路としての、人称なき分節。 縦軸(超越論性、強度)があり得るとしたら、そこにしかない。 *3
志紀島氏は、ハイデガー的な本来性固有性を、人称なき強度の「反対」というが、ハイデガープロセスとして生きる存在の強度は、非人称ゆえの固有性、と言えないかどうか。

    • 否定神学うんぬんといった議論では、議論のスタティックな構図ばかりが論じられて、それが実際には《プロセス》として生きられるしかない、ということが忘れられている。存在論を私たちは、プロセスとして現に生きてみせるしかない。主観性の生産過程ではないほかの場所に、存在体験があるわけではない。
    • 「自分だけ特別」みたいな、いわばプライド・カルトみたいな意識は、自分の固有名を実体化している。 固有性を実体としてのみ語る議論は、こうした固着に加担してしまう。これは、《作品》だけを実体化する姿勢と関係しないかどうか。たとえば私は、美術館でピカソの絵を観たことがあるのだが、新聞紙などを貼り付けたその作品は、私にはガラクタにしか見えなかった。しかしその絵は、《ピカソの絵》として固有名を得ており、高額で取引される。この、「完成品だけに固有名があって、みんなが固有名の崇高さを目指す」という状態は、最初から目指すものを間違っているように見える。制作過程を、それ自体として話題にし得ないのか。(それは現実には、お金の動く話にならないのか?)



福祉の言説は、非人称の分節回路を経ずに、固有名を実体として保護する。そしてその「○○さん」が固有名化されるのは、愛の対象だからではなくて、病気や障碍の非人称カテゴリゆえ。*4

    • ここに、実体による「当事者」論と、分節生成的な《当事化》論のちがいがある(参照)。 「カテゴリ内にある○○さん」として擁護するのではなく、非人称のプロセスとして擁護できるかどうか。ここではスタッフも、同権のプロセスとしてその場にいる。 「統合失調症者だから100%肯定せねばならない」ではなく(それでは実体化だ)、プロセスとプロセスの関係として生き直せるかどうか。言葉を換えれば、患者の《実体化崇高化》とは別のしかたで、相互尊重的な仕事のあり方を探せるかどうか。
    • 名詞形《当事者》の崇高化は、思考や作業手続きのアルゴリズム化と矛盾しない。




「要素現象」に対して、グァタリ的特異化は臨床効果を持つか が問いになる。

メタを僭称する言説は、おのれの生産様式関係様式を超越論的に(つまり条件を問うようなかたちで)話題にされることを許してくれない。なにしろ超越的(メタ)だから。

少なくとも神経症圏については、

 主観性の生産様式と、関係性の様式を、固着させる言説*5

に対して、特異化の問題意識は、一定の効果を持つ。

私たちの思考は、集団的な編成のありようとして、あるパターンに閉じこもってしまう。 《考える》と言った瞬間、すでにある様式内にいる。では、どういうパターンで考えてしまっているか?*6・・・・そちらの問題意識を解放し、別ざまの生産様式に向けて開かれることが、要素現象をめぐる意味を持ち得るかどうか。


いずれにせよ効能を問われているのは、メタ的な「認識内容」ではなくて、分節(および改編)のプロセスそのものである。
プロセスをいかにうまく生きるか、が問われているのであって、結論への自足は、むしろ自閉的と見なされる。
笑い「について」詳しくとも、実際に笑わせられなければ、笑いの効能は得られない。それと同じように、特異化「について」詳しくとも、実際に特異化できなければ、特異化の効能は得られない。



【2012年7月27日の追記】

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)

pp.88-89 に、ちょうど関連する記述があったので、引用しておきます(改行と強調は引用者)。

 個人的な言表というものはない、そんなものは決して存在しないのだ。あらゆる言表は、一つの機械状アレンジメントの、つまり言表行為の集団的な動作主の産物である(「集団的な動作主」といっても、民族や社会と解してはならない。それは多様体なのだ)。
 ところで、固有名というものは、一個人を指示するのではない。――個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛練の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解〔包摂〕された純粋な不定法の主体なのだ。
 プルーストが名前〔プレノン〕について述べていること――ジルベルトと口にすると、私は自分の口の中に彼女の裸の全身を含んでいるような気がする。 〈狼男〉、真の固有名、生成変化を示す親密なファーストネーム、諸不定詞、非人称化され多様化された個人の強度。*7
 だが、精神分析は多様化について何を理解しているだろうか? 一こぶラクダが、空の下でせせら笑う幾干もの一こぶラクダになる砂漠の時。幾干もの孔が大地の表面に穿たれる夕刻。去勢、去勢、と精神分析の案山子〔かかし〕はわめく。それは狼たちがいるところに、一つの孔、一人の父親、一匹の犬しか見てとったためしがなく、野生の多様体があるところに、飼い馴らされた一個人しか見てとったためしがないのだ。
 われわれは、精神分析がひたすらオイディプス的言表を選別してきたことだけを非難しているのではない。なぜならこれらの言表は、ある程度までやはり機械状アレンジメントの一部をなしており、このアレンジメントとの関係で、訂正すべき指標として役に立つこともあるからだ。ちょうど計算ちがいのように。われわれは、精神分析オイディプス的な言表を用いて、患者に、自分は人称的、個人的な言表を保持し、要するに自分の名において語ろうとしている、と信じ込ませたことを非難しているのである。

原文も。(原書p.51)

 Il n'y a pas d'énoncé individuel, il n'y en a jamais. Tout énoncé est le produit d'un agencement machinique, c'est-a-dire d'agents collectifs d'énonciation (par « agents collectifs », ne pas entendre des peuples ou des sociétés, mais les multiplicités).
 Or le nom propre ne désigne pas un individu : c'est au contraire quand l’individu s'ouvre aux multiplicités qui le traversent de part en part, à l’issue du plus sévère exercice de dépersonnalisation, qu'il acquiert son véritable nom propre. Le nom propre est l’appréhension instantanée d'une multiplicité. Le nom propre est le sujet d’un pur infinitif compris comme tel dans un champ d'intensité.
 Ce que Proust dit du prénom : en prononçant Gilberte, j'avais l’impression de la tenir nue tout entière dans ma bouche. L’Homme aux loups, vrai nom propre, intime prénom qui renvoie aux devenirs, infinitifs, intensités d'un individu dépersonnalisé et multiplié.
 Mais qu'est-ce que la psychanalyse comprend à la multiplication ? L'heure du desert ou le dromadaire devient mille dromadaires ricanant dans le ciel. L'heure du soir ou mille trous se creusent à la surface de la terre. Castration, castration, crie l’épouvantail psychanalytique qui n'a jamais vu qu'un trou, qu'un père, un chien là où il y a des loups, un individu domestiqué là où il y a des multiplicités sauvages.
 On ne reproche pas seulement à la psychanalyse d'avoir sélectionné les seuls énoncés œdipiens. Car ces énoncés, dans une certaine mesure, font encore partie d'un agencement machinique par rapport auquel ils pourraient servir d'indices à corriger, comme dans un calcul d'erreurs. On reproche à la psychanalyse de s'être servie de l’énonciation œdipienne pour faire croire au patient qu'il allait tenir des énoncés personnels, individuels, qu'il allait enfin parler en son nom.




*1:「私たちは、主観性の社会的生産の、一般的社会的な分断のプロセスに巻き込まれている。 Nous sommes embarqués dans ce processus de division sociale générale de la production sociale de la subjectivité.」(Wikipedia - Micropolitique【Félix Guattari, Suely Rolnik 『Micropolitiques』の孫引き】 あるいは、
「資本制的主観性に従うと、いっさいの特異性は回避されるか、専門化された基準による装備や枠組みの支配下に置かれなくてはならない。 Selon elle (la subjectivité capitalistique), toute singularité devrait soit être évitée, soit passer sous la coupe d’équipements et de cadres de référence spécialisés.」(『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』p.42をやや改変、『Les Trois Ecologies』p.44)

*2:「経済的《チャレンジ》の欺瞞的効率性に留まるかわりに、特異化の過程が一貫性・共存性を保ち得るような価値世界を、我がものとしなければ。 Au lieu d’en rester perpétuellement à l’efficacité leurrante des « challenges » économiques, il s’agit de se réapproprier les Univers de valeur au sein desquels des processus de singularisation pourront retrouver consistance.」(『三つのエコロジー (平凡社ライブラリー)』p.71をやや改変、『Les Trois Ecologies』p.71)

*3:ジャン・ウリやグァタリはその回路を解放しようとしたはずだが、現実には、制度論を標榜する人たちの間ですら、たんに実体的に自分の固有名に固着し、知覚過敏になっているだけ、だったりもする。

*4:1980年代以後の不登校・ひきこもり擁護言説も、基本的にはこのスタイルにある。5歳児のように、全面肯定される「当事者」たち・・・。そこでは、実際の主観性や関係性が問われ出した瞬間に、旧態依然たる判断様式に回帰する。丸抱えで肯定されていた「当事者」が、加齢とともに擁護される要件を失い、むき出しの「失業した中年」として持てあまされる・・・。

*5:「生産様式は、関係性のありかたと切っても切れない」という理解は、マルクス的なもの。私たちの思考のあり方は、関係性のあり方をいつの間にか決めてしまっている。たとえば、笑いの様式がそうであるように(参照)。

*6:往々にして臨床家は、アフォリズムを職業上の使命と勘違いするように見える。

*7:【上山注】: 邦訳ではなぜか語順を間違っていて、《非人称化され多様化された一個人の生成変化〔なること〕、不定法、強度を示す親密なファーストネーム》となっている。