「大学における準ひきこもりという存在」(id:todeskingさん) 【はてブ】

元になった樋口康彦氏*1の論文は、前提としているデータや価値観に疑問がある*2が、問題啓発としては有意義だと思う。

非社会的状態像については、まず最初の段階で次の3系統を診断し分けなければならない。

 (1)精神疾患 うつ病統合失調症など)
 (2)発達障害 高機能自閉症アスペルガー症候群など)
 (3)社会的ひきこもり*3

それぞれで課題や社会的処遇が異なる。 大学に入学して学科をこなしていても、(1)や(2)に苦しんでいるケースは多い*4

樋口氏の議論は(3)についてだが、気になったのは次の諸点。

 ■「何をもって社会性となすか」が疑われていない。
 ■「いかに社会復帰してもらうか」は現実的な課題だが、「とにかく社会復帰させよう」という目論み自身が、目的にとって自殺的に機能する。
 ■「適応強迫による内面疎外」の問題は、単なる外圧では対応できない。

以下、詳しく見てみる。

  • 若者の「非社会性」を懸念する議論の多くが、求められる「社会性」のイメージを非常に硬直的かつ旧態依然的に語るが(「順応せよ」「社交的であれ」など)、樋口氏の論文もそれを踏襲している。同時代や周囲の交流作法に迎合するだけが「社会性」のすべてではないし、関係を作るときの作法には、その場その人の思想や倫理が賭けられている。樋口論文では、「どのように関係性を創造し、維持すればいいのか」といった実験的かつ倫理的な模索の契機は捨象されている。 ▼論じている樋口康彦氏ご本人は、ご自分が「社会的である」ことを疑っていない。樋口氏が体現している社会性の作法や能力は無条件に肯定されており、そこで氏が維持している「社会性」がどのような性質のもので、どのような価値観に従っているのか、反省的に問われていない。結果的に樋口氏は、ご自分が遵奉している「社会性」(「期待されている男性役割」など)を無条件に押し付けることになる。 【ある「社会性」を体現する者は、別の者にとってそうではないことがあり得る。】
    • しかし、社会環境はすぐには変えられないし、「準ひきこもり」的実情にある本人が「状況変革の活動家」として振る舞ったり、あるいは特異な才能で社会に再接続されるチャンスがあるのでもないかぎり、「目の前の環境にとりあえず適応する」ことは、サバイバルのために必須の課題と言い得る*5。 また、社会的不適応の状態が本人や家族にとって苦痛となっているならば、それは「適応すべきである」という社会規範とは別枠で、具体的な課題である。 その意味において、樋口氏の鳴らした警鐘自体はまったく正当と言える(老婆心としてのパターナリズム)。 ▼懸念されるのは、「とにかく社会復帰させよう」という外圧的な目論みや実践それ自身が、本人をますますアレルギー的拒絶反応に追い込みかねないこと。 あるいは、自分の暴力性を反省することのない「強圧的な矯正」施策となってしまう。


  • 樋口氏の論文では――そして多くの「非社会性」論では――、「俗世間に適応しようとしない若者」が糾弾されるのだが、実際に問題を引き起こしているのは、他者や規範を無視しようとする傾向ではなく、むしろ他者や規範に過剰に適応しようとしてしまう強迫観念や過敏さ*6ではないかと思われる【適応できないことへの饒舌な空理空論(言い訳)もそこに起因する】。 つまり「ルーズさ」ではなく、「適応強迫」ゆえの不適応が問題となっている*7
    • たとえば、適度な清潔願望は入浴習慣を可能にするが、過剰な清潔願望(不潔恐怖)は、あまりに強迫的な洗浄行動を伴い、それが苦痛でならないため、かえって入浴が不可能になる。 ▼同様に、社会軌範や倫理意識への「適応願望」が強迫化すれば、適度な社会参加の習慣が不可能になる。
  • 旧来の労働論においては、「単純労働」こそが最悪の疎外要因とされたが、かような過敏さを持つ人間においては、「にんげんかんけい」による疎外のほうがキツイ*8。 また、「私はいかに生きるべきなのか」といった規範強迫による内面疎外は、過剰な道徳的潔癖さや、主体的意味の強迫的模索となって本人にとり憑き、複雑な社会関係の渦中にある「意味のあいまいな」「いかがわしい」仕事の継続を困難にする。 ▼「新卒者の離職率は七・五・三割」と言われるが、そこで単に「職場に適応しろ」「気合いを入れろ」などと精神論をぶつことは、短期的な気まぐれや暴力にしかならない。 → 「動機づけ」とその「継続的な維持管理」に関して、(いわば)唯物論的な議論が必要ではないだろうか。
    • 必要なのは、具体的な戦略的技能だと思われる。 内面レベルへの矯正を前提とした外部環境への適応要請ではなく、「本人なりの価値観が戦略的技能を身につけ、自分なりの生き方を模索できるようにする」というような。 ▼そうした模索の前提となる執着については、また(どこかで)項を改めたい。






*1:ニート・ひきこもり・社会的排除などを研究されている「樋口明彦」氏とお間違えなく。

*2:参照

*3:(3)については、さまざまな「診断カテゴリー」の結果出現する「状態像」なので、一つだけ枠組みが違う。

*4:民間団体・精神科医・行政系など、相談窓口によって来訪者の性質はずいぶん変わるが(永冨奈津恵氏・談)、私がお話を聞いたある行政系の担当者は、ひきこもりを主訴とする来訪者のうち意外なほど多くの割合を「発達障害」と診断している(数字はここでは控える)。 ▼もちろんそれは深刻化した「ひきこもり」事例だが、今回の樋口論文のいう「準ひきこもり」の一部にも、こうした事情は疑い得る。

*5:フリースクールなど、別の作法を持ったオルタナティブ社会に合流する選択肢もあるが、そこにはそこで求められる独自の「社会性」がある(現に私はフリースクールにすら不適応だった)。 ▼各共同体には、「このようにあることが社会性である」という不文律のルール(共有された暗黙の前提)がある。

*6:井出草平id:iDES)氏の修士論文柄谷行人氏の超自我論などを参照。

*7:このような過敏さは、たとえば「本を読むこと」の困難となっても現れる。書物の文字面において、私は適応すべき《他者》と出会ってしまう。

*8:旧来の疎外・搾取論は労働組合の連帯を運動母体となし得たが、このようなメンタリティにおいては、労働組合の「にんげんかんけい」こそが耐え難いものとなる。よってこの内面疎外は、不利な労働環境においてもますます本人を孤立に追い込み、社会的に弱い立場に追いやることになる。