疑問の焦点

 さて、これまで述べてきたリベラリズムの主張は、なぜか「きずなをバラバラにするものだ」といった誤解を受けやすいものです。
 こういう誤解は、「きずな」なるものを単数で、しかも宿命的なものとしてイメージすることから来ています。「たとえ屈従的なきずな(単数)であっても、それが現に生きられているかぎり、まったくきずな(単数)が存在しないよりはましだ。なぜならば、自己はきずな(単数)によって位置ある自己として成立し、きずな(単数)がなくなれば、人は屈従状態よりもおそろしい真空状態(無)を生きることになるからだ。人は砂粒として無であるよりは、むしろ同胞と共に奴隷であることのほうを選ぶ」というわけです。
 このような考え方は事実に反します。確かに自己が何らかのきずなによって支えられている、つまり自己ときずなはセットになって存在していることは確かですが、そのきずなと自己のセットを単数で考えるのは誤りです。さまざまな生活状態で、多種多様なタイプのきずなと自己のセット(複数)が生態学的にせめぎあっているのが、実際の姿です。そしてあるタイプのきずなと自己のセットが衰退することは、別のタイプのきずなと自己のセットが繁茂することを意味します。精神病でもない限りは、きずなと自己のセットそのものが失われること(真空状態)などありえません。(p.209-210)

精神病でもないのに、「きずなと自己のセットそのものが失われる」のが「社会的ひきこもり」といえる。 ▼内藤氏の議論は、「差別的言説がなくなってもどうにもならない層」については、考慮に入っていないように感じる*1
これは、以前に内藤氏の「お前もニートだ」を読んだときの違和感でもある。 内藤氏は「トライやる・ウィーク」を「強制労働」になぞらえるのだが、「ひきこもり」のような極限的なデタッチメントの顛末から遡って考えると、それも「制度的に保障されたアクセス・チャンス」として、「動機付けを生む出会いの一つになり得るかもしれない」と思うのだが・・・。【「強制はいけない」というなら、そもそも幼年期の「教育」は「強制」でしかあり得ないのではないか。】



*1:あるいは、ご自分のミッションをそこに限定されている、ということか。