東浩紀=「欲望の当事者」?

id:sakstyleさん

 というよりも、斎藤が指摘し、東自身も認めているように、東の仕事とそれに対する他人の評価というのは、いつもそのことを巡って動いている
 「結局東は何がしたいのか」

東浩紀氏は、「分析欲望の《当事者》」であり、彼のデリダ論は僕にとって「当事者語り」に満ちていた*1。 そこにあったのは、見たこともないような論述スタイル=文体であり、それは見たこともないような欲望に駆動されていた。 「このような《知への欲望》があり得るのか」の驚き。 ▼彼はみずからの欲望を、《当事者》として生きている。 彼はその当事者性=「不気味な欲望の実存」が何を意味するのか分からぬまま「欲望の当事者」を生きているが、学者としてはこういう人は珍しいということか?

    • 「何をやりたいかは分かるが、語らせてもつまらない」人は多いが、「何をやりたいか分からないのに、語らせると面白い」というのは珍しい。 ▼こういう知性や欲望のあり方を、実務家である切込隊長氏と比べると見えてくるものはあるだろうか。*2

気になるのは、ではその東氏の欲望にとってリベラルな「自己相対化」はどのように成立するのか、だ。 相対化を伴わない「当事者の欲望=ニーズ」は、つねに傍若無人の暴力に堕する危険を伴っている*3。 ▼いや、思考の欲望にそのような相対化は必要ないのか? 「自分の思考活動において満たされるべきニーズ」と、「他者との関係において満たされるべきニーズ」のちがい・・・。





*1:以前も少し触れたが、彼は『存在論的、郵便的』のあとがきで、「僕のつぎの哲学的な仕事は、・・・・「この私」とは徹底して無関係なものになるべきだ」と語っている。

*2:最近の僕は、切込隊長氏をはじめとする実務家の文体から、よく元気をもらっている。

*3:まさに「当事者批評」――当事者「が」批評すると同時に、当事者「を」批評する――の問題。