「仲正昌樹×北田暁大トークについて、双風舎からのお知らせ」

12月11日に予定されていた第3回が中止になったとのことで、その件について仲正氏と北田氏ご本人がそれぞれコメントを書き込んでいるのですが、『デリダの遺言』を読み中の僕には、どちらの書き込みもとても納得できる判断に見えます。

以下、北田氏のコメントから引用。

 「サヨクって硬直してて自己目的化してて、楽しそうで困ったやつらだ」という認識は、私も共有しますし、既に色んなところで表明してきました。しかし、「サヨク=自己目的的享楽の人々」という批判図式は、そろそろ賞味期限切れであるように思います。重要なのは、そういう「スタイル」批判ではなく、実質的にサヨクの議論空間へと切り込んでいって、議論の位相を複雑化していくことではないでしょうか(まさしくふだん仲正さんがされているように、です!)。「語り口」批判は重要ですが、問題なのは「語り口」批判そのものが目的化してしまうと、サヨク的「いきいき」ロマン主義以上にやっかいな、シニカルなロマン主義に帰着してしまう、ということです。

サヨク=「東京シューレ不登校業界)」、仲正昌樹=「斎藤環(ひきこもり業界)」とすると、そのまま私自身が口にしたいような文面です。
ただし、不登校・ひきこもり業界にはびこる「自己決定論」のロマン主義*1は本当に強烈なので、「自己目的的享楽の人々」という批判図式が――こと業界内に限っては――「賞味期限切れ」かどうかは怪しい。
不登校は選択の結果だ」「本人の自己決定に任せていればいつか必ず自分から動き始めてくれるんだ」という、「サヨク的《いきいき》ロマン主義」は、「ひきこもり」という状態がいかに厄介であり、そこから考える必要のある、いや考えることのできるモチーフがいかに複雑怪奇であるか*2、見ようとしない。 「自己決定!」というロマン主義に酔っていて、その心酔自体が罪深いかもしれない、という可能性には思い至らない。 ▼不登校業界と引きこもり業界の仲が悪い理由――さらに、ひきこもり業界そのものの中にある亀裂の理由――の核心部分が、こここにある。 「離脱肯定」(不登校業界)と「再復帰支援」(ひきこもり業界)が両立し協調すべきだとして*3、その双方が、「議論の位相を複雑化」する必要がある。



*1:すでに何度も指摘しているが、そのようなロマン主義が歴史的には一定の役割を担ったことは否定できないし、私自身、その恩恵をこうむった不登校経験者の一人である。

*2:ひきこもりに関する思索が「複雑怪奇」であり得る、という表現は、斎藤環氏によるものである(インタビュー時)。

*3:→『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』掲載の拙稿