「インターフェースとしてのコミュニティー」

id:flapjack:20050204#p1 のうれしいご指摘から、id:flapjack:20031211#p1 へ。

 そういう歴史的過程の結果として、国家と個人の間のインターフェースとしてのコミュニティーが日本では未発達になってしまった。
 でも、そろそろ、どういうふうに開かれたムラ的ではないコミュニティーを自覚的に作り上げていくか、という課題を正面から引き受けるときがきているのではないか。



驚きました。 1年以上前に、こちらの私のエントリとほぼ同じ問題意識。
id:flapjack さんの存在は(Ririka さんのダイアリ経由で)当時すでに存じ上げていましたし、当該記事を拝見していた記憶すらあるのですが、その頃の私にはまだ自分の身に迫る問題設定とは受け取れなかったように記憶します(政治経済的脱落者である私にとって、「国家と個人」という“高尚な”話より前に、取り組むべき問題があるように思われたのだと思います)。 私のほうが少し成長して、id:flapjack さんの出されていた議論に追いつけた、ということでしょうか。 (今回私が「中間集団」の機能を考えたきっかけは、経済に詳しい友人との会話、それに「制度論的精神療法」を論じておられる三脇康生氏との会話でした。)
ところで、「どういうふうに開かれたムラ的ではないコミュニティーを自覚的に作り上げていくか」については、「脱落も復帰も自由にできる」という目標設定*1、それにこちらのようなスタイル(課題共有による、≪機能的・一時的・動態的≫中間集団への多層的複数帰属)を考えてみたのですが、いかがでしょうか・・・・。