ひきこもり原理論のための助走ノート

杉田俊介id:sugitasyunsuke)さん。

 ひきこもりの人々とその家族の未来に関する(一つの)問題点の所在を明確にし示したい、と願って書いてみました。 正直、気持はすごく切迫しています。 ひきこもりとその家族のヒトビトに残された時間は少ないのではないか、と。



直接の当事者・ご家族や、ひきこもりへの職業的支援者ではない方がこのような問題意識を持ってくださるのは、本当にうれしいことです。 ありがとうございます。
しかし、逆に「当事者・ご家族や職業的支援者」の側が、こうした切迫した議論を正当に評価できていない面があるかもしれません。私もよく切迫した問題意識を口にしますが、たとえば「高齢化する当事者・経験者の将来像を悲観的に描く」ことに対し、関係者から「不愉快だ」と抗議を受けることがあります。 「話題にしなければ、現実にならない」と思っているのでしょうか・・・。

 ぼくは、正直、ひきこもり者の一定部分は、「就労」するのが今後も無理だ、と感じる。(中略)
 ひきこもり者の長期的な未来を考えていくと、問題のつかまえ方の素朴なシフト(転回)がどこかで必要で、「いかに働かせるか」ではなく、「働かない(働けない)ことを条件とし、いかに長期的に生きていくか」の問題を真剣に考え続けないとダメなのかも知れない・・・。 考えないとダメなんじゃないだろうか? (中略)
 冷徹に現実をみれば、ネオリベラル的にはこの「結論」しかない。 働いて自活できる能力がないなら、君達は死ね、自己責任を甘受しろ、自業自得だろ、と。 でも、もしもそれを自明の「結論」と考えないならば、仕方ないと考えないのであれば、別の道筋が必要なことにはやはりなる。 そろそろこのことを真剣に考える時に来ている気がする。



杉田さんは私よりもはるかに勉強家で、不平等論や社会思想の基本も押さえた上で論じておられるのだと思います。 しかし、「やはり現実にはこの社会は、身動き取れず途方に暮れる大量の個人を見捨てて運営されてゆくのだろう」という私の悲観論は、なかなかリアルな努力手続きを見出せずにいます。