「発言者」が保つべき、「発言内容」への距離

マルクス本人はマルクス主義者ではない」「ラカン本人はラカニアンではない」といった言い方は、「固有名を冠された主義主張やその発言内容に対し、発言者本人は他者性を維持する」というぐらいの意味だと思う。 しかしこれは、それ自体としては、発言者の宗教的権威をさらに強めはしないか。 「発言者本人の否定神学的救済」とでもいうか。
「自分の発言に対して他者性を維持する」、すなわち「≪他者に批判される可能性≫の場所を死守する」ことは、思想家や権威者だけでなく、発言を試みる者全員が我が身に引き受けねばならないのではないか。 「私自身は、私の発言とは距離を取っているから、合理的な批判であればいつでも聞く用意がありますよ」というのは、必要不可欠な態度ではないか。
自分の中に、合理的批判を受け容れる空所をつねに保っておかねばならない。 それは否定神学的崇敬の対象ではなく、単に維持すべき場所である。


否定神学はいけないんだ」という主張に安住すれば、そこでその者は自分の発言内容への批判的距離を失い、その無条件の自己肯定姿勢自体が神学的になる。 発言の内容面で神学を否定していることは、発言者自身の姿勢が神学的ではないことを保証しない。 「権威主義はいけないんだ、という権威主義的発言」があり得るのと同じ構造。
他者の批判を受け容れる余地(空所)と同時に、行動による軌道修正、行動との関係におけるフィードバック機能が重要。 「行動しなくても常に正しい」は宗教。