「逆向きの権威化」と、あまりに特徴的に繰り返される自己矛盾

こちらに記した「マイノリティ同士の深刻度競争(不幸自慢)」だが、客観的条件に関するものだけでなく、主観的にもあり得るらしい(「絶望自慢」)。 「より深く絶望し、何もしない者」こそが偉い、と。 「希望を持つ」人間はファシスト呼ばわりされるというのだが(光のファシズム、ということだろうか)、「希望を持ってはならない、絶望しなければならない」という強要こそ暴力ではないのか。
絶望は、仕方なく受動的にそこに落ち込むもの。 積極的に選ぶようなものか?*1 積極的に選んでいる時点で、いや自殺も死亡もせずに生き延びている時点で、欺瞞ではないのか。
「何もできない自分を確認する、という不安」から、逆にその「≪できなさ度合い≫において自分を権威づける」、その逆転で自我を安定させる、という手法だろう。 「不幸・絶望・不行動」であればあるほど、権威を得る。 ふつうにある、「肩書き・実績・行動」による権威づけと、真逆のベクトル。
ここには、「よりプロレタリアに近い者こそが権威を得る」と同じ構造がないか?


「行動すること」を禁じるのだから、これは事実上、弱者に不利益をもたらす主観姿勢の強要になる。 「努力してはならない、諦念の中で死ね」と言っているのだから。


プラス側の権威と同じく、マイナス側の権威も、ひとたび確立されれば「絶対に間違わない」。 主張者は宗教的権威になってしまう。 行動すれば、正しいこともあるが、間違うこともある。 行動しないことで「必ず正しい」、あるいは「行動しても必ず間違う」(「正しいことはあり得ない」ことによって絶対的に正しい)などというのは、卑怯としか言いようのない宗教的自己正当化ではないか。
そもそも、「行動しても間違うのだから、行動してはならない」(行動するのは妥協である)というのだが、「絶望しよう」という呼びかけ自体が≪行動≫ではないか。 → ここにも、私が経験した「卑怯な自己矛盾」(「説教をしてはならないという説教」など)と同じ構造がある。


あらゆる弱者運動に潜む根深い問題ではないか、これは。





*1:「不可視かつ無声の引きこもり当事者」と同じく、「絶望」は、課題(プロジェクト)との関係において参照されるべき想定項(状態像)であって、それ自体を目標として目指すべきものではない。 → ここにも、≪属性≫と≪課題≫の混同がある。 深刻な状態は、ケアすべき課題として共有されればいいのであって、それ自体を状態像として目指すべきものではない。 主観的・客観的状態の軽い人間も、最深刻状態をケア課題として共有できるのなら、それでいい。 ▼「状態像が深刻でない者は妥協・逸脱である」というのは、ケア課題との関連で想定されるべき属性レベルの話を、共有すべきプロジェクト上の目標設定とショートさせている。 この許し難い混同については、何度でも問題にされるべきだ。