【不可視の他者】

  • 田中俊英氏が、先日亡くなったデリダの議論を援用しながら、引きこもりやニートというのは「不可視の他者」だ、という話をされたようです【私の到着前】。
    • 私としては、社会に順応している人たち(マジョリティ?)が、不適応者たち(という他者)を「暴力的強制=矯正」によって回収しようとのみ目論むのか、それとも「対話的関係」によって相互に変化する道を探ろうとするのか*1、といったあたりに興味、というか不安があります。




≪他者≫の相互性

  • 田中氏がどういう発表をしたのかはまだ知らないのですが、仮に「ひきこもりやニートを≪他者≫として否定してはならない」という話だとしたら*2、私はその重要性と必要を徹底的に認めた上で(私も今後主張していくつもりです)、もう一つの話もするべきだと思います。 つまり、「ひきこもりやニートの当事者のほうでも、≪社会に適応している人たち≫を他者と認め、付き合うすべを獲得せねばならない」というものです。*3
    • 基本的に当事者には「対人恐怖」的な人が多く、つまりそれは「他者性をあまりに過剰に感じすぎて、パニックになっている」状態と言えるでしょうか。 2つの陣営がお互いに他者と認め合ったときには、力の強いほうが威圧的・暴力的になるわけで、まずは単に戦争状態(というかイジメ)になるのだと思います。 で、たいていは弱いほうが負けて(排除されて・潰されて)終わる。 → 圧倒的に弱い立場である当事者のほうに「他者認知」の要望を出すのは酷のようですが、「ひきこもりは天使だ!」みたいな神秘化に現実味がなく、「当事者の永続的全面受容」に疑問がある(「人命尊重の見地から」と付け加えておきましょう)以上 ―― そして、相互の間に「対話的な関係」を作らねばならない以上*4 ――、課題が相互に発生するのは、当然のことではないでしょうか。
    • このことは、「当事者 vs 世間」だけではなく、「当事者 vs 家族」の関係においても重要な問題だと思います。 親と子は多くの場合、お互いを他者と見ていない。 もちろん私も他人事じゃありません。
    • 私が他者的に振る舞うことを許さない当事者も一部にいるようです。 言うまでもありませんが、それは当事者が私に向ける暴力です。


  • *5しかし、じつは当事者が他者をまともに認識できない理由には、非現実的なまでに肥大した罪悪感・羞恥心とともに、自分を追い詰めてきた他者たちに対する恐怖や、強烈な怒りの感情も大きく作用しているので、むずかしい…。
    • 自殺した漫画家・山田花子氏の作品(ISBN:488379055X)や日記(ISBN:4872334191)などを読んでみてください。 種々の事情によって完全に孤立し、あまりにも極端に弱い立場に立たされた(と感じている)個人は、他者に出会ったときに「おびえる」のが第一かつ支配的な反応であって、基本的には「対話」なんて不能(インポテンツ)の状態。 そこまで認識した上で、「どうするのか」ということなんですが…。 【これだけ徹底的に説明しても、保守派たちはその私の意見まで援用して、「説教的弾圧」にいそしむのでしょうか。】
    • 「自分だけが理解されない、というその思い込み自身が傲慢なんだ!」 「俺が引きこもってたら、死んでた。 お前はちゃんと養ってもらって、受け容れられてるじゃないか!」 「この究極の内弁慶め!」 …等々というのは、コンスタティヴ(事実記述的)にはたぶん正しいのですが、パフォーマンスとしてそれを当事者に向けたとしても、失敗する 【これは、ひきこもりに対する「説教」はやめるべきだ、という理由の核心部分です】。 人命尊重の見地から「強行介入」の立場を採っているにしても、方法として拙劣すぎる。 本気でそのラインで「効果的な強行介入」を続けようと思うなら、けっきょくは暴力しかなくなる。 → 「強行介入」と言っても、「何でもアリ」ではないはず。


  • と、この項目がこれだけ長くなったことからして、≪他者論≫は大事だ、ということでしょうか。








*1:繰り返しの引用になってしまいますが、id:essa さんのこちらの記事参照。 「個人と環境の相互変化」というテーマについては、これからも考えてゆきたいです。

*2:以下、その前提で話します。 違っていたらごめんなさい。 その場合は、単に私の意見の開陳として読んでくださいね。

*3:こちらの引用で、宮台真司氏がかなり痛烈かつ的確に描いているような問題のことです。

*4:僕はじつは、「棲み分け」というモチーフにも多大な関心があります。 つまり、対話的な関係を断念し、「別の場所」に生きること。 しかし、当事者の現状には生活力がないし、そもそも「別の場所」ってどこだ…。

*5:以下、この段落にある主張の多くは当ブログで繰り返し言ってきたことなのですが、無用の誤解を可能な限り避けるために、あえて書いておきます。 ―― やれやれ、イベント報告ですらここまで周到に予防線を張らねばならないとは……っていうか、それならレポートだけにしとけ。