論点としての現場  関連メモ

私のブログは、ひきこもりの経験当事者や支援関係者からは「学者ごっこ」と言われ、学者からは「専門性が足らない」と言われることが多いが、真剣に考えようとする人間がそのような葛藤に晒されること自身が、論点としてのひきこもりに内在的な、原理的な問題なのだと思う。
抽象的なことばを駆使する学者の議論は、生身の現場とつながっていなければ嘘のはずだ。というより、現場はそれ自体が、複数の主体の関わる《論点》であり、とりわけひきこもりの苦痛は、「硬直して身動きのとれない論点」として構成されている。本人の意識は、自分の状態という論点に固着しており、家族は、この固着した論点とのかかわりの中で途方に暮れる。――こうした意味でひきこもりの臨床は、「論点の臨床」といえるかもしれない。


それを単に「病気」とみたり、ぎゃくに単に放置したりすることは、みずからの硬直した視線が論点の状態を悪化させることに気づかず、苦痛そのものが「論点」として構成されることを見ていない。医師のような「診断」も、「100%肯定する」というイデオロギーも、みずからが構成要素である《論点》を、かえって硬直させてしまう。
これは、単に本人を優遇することではない。苦痛そのものが論点として構成されている以上、それは他者による介入の契機を含むし、そもそもこの論点は、それが生物的に支えられるためには、家族の扶養という暗黙の介入を最初から前提している。


ひきこもりは、それ自体が制度的に硬直した論点であり、現場はそれ自体が、複数の主体の関わる《論点》として構成される――こうした理解は、ひきこもりに限定されない普遍性をもつと思うが、とりわけ「ひきこもり」においてこそ、有益であるように思う。


以下は、そのような視点からの関連メモです。