「コミュニケーションと承認」 ―― 性愛と経済

8日コメント欄には、chiki(id:seijotcp)さんより、きわめて刺激的かつ真摯な書き込みをいただきました。 そこで提示いただいたコミュニケーション≪しかない≫、そして「承認(評価)のシステム」という思想について、今ずっと考えています。

 「安易な受容と安易な排除は裏表」*1…そう思います。 凡庸な言い方ですが、一般的に「安易」でない「困難」なコミュニケーションを排除してしまうことがしばしばある*2ように思います。 それは必要悪であるとは思いますが、それに抗する<唯一のコミュニケーション(=訓練)の場>として、批評や文学などを捉えることも可能ではないかと思います(chiki の親しい友人から影響を受けた発想であることを明記させてください)。



コミュニケーション」と「承認」というところから、僕はやはり 性愛系経済系 の論点を思い出しました。


恋愛やセックスが「承認」であることは当ブログでも何度か触れてきました(こちらこちら)が、それを「コミュニケーション」の問題であると整理すればいいわけか。 というか、「性愛はコミュニケーションだが、若い男性の多くはコミュニケーションができない、つまり恋愛ができない」 という話は、それこそ宮台真司氏がしていたっけ。


新しく思い出したのは、地域通貨LETS(レッツ、Local Exchange Trading System)の紹介者かつ推進者である西部忠氏の論文にあった、「貨幣はメディアだ」という指摘。 → そのコミュニケーション・メディア」としての側面が強調されたのが LETS というシステムだ、というお話だったと思う*3


性愛についても経済についても、いきなり≪承認≫を目指すんじゃなくて、≪コミュニケーション≫の訓練を ―― chiki さんによると、コミュニケーション自体が訓練だ ―― 目指せばいいわけか…。
そこに「PICSY」のような、「新しい貨幣」を導入できればいいのだが…。







*1:chiki さんの書き込みから僕が連想したことです。

*2:強調は上山

*3:いま手元に論文現物が見当たらないが、90年代後半の『批評空間』に掲載されたものだったと思う。 僕が「LETS」なるものを知ったのはこれが最初。